随筆5 雨の道程③ 生きる意味と不条理

 ひと眠りして目が覚めると、バスは既に首都高に入り、ナトリウムランプのオレンジの光に照らされていた。ムルソーが感じた、あのアルジェの街にバスが入ったときの感動とは斯様なものであったのかもしれない。町と町の間の光の空白地帯から光の只中へと入るというのはある種の感動を伴うものだ。それは人の温もりとも、網膜を突き刺す光のシャワーともとれるものであるが、人間の領分ではない暗闇から脱け出すことへの安堵、人心地が付く感じというのは、確かに存在している。太陽の煌めき、その眩しさを連想させるこれらの光源は、熱を帯びていないという点で不自然な存在だ。突き刺す光の冷たさが、そこに人間の手が加わっていることを認めさせ、結果として見る者を人間の世界に引き込んで離さないのである。

 しかしそれでも、大都会東京の明るさには辟易してしまう。色彩と輝度によって表現される情報の波が一気に押し寄せると頭がオーバーフローを起こすのだ。この感触、倦んでしまうような情報の嵐に、同時に都会らしさを感じるのだが、現に僕はこれを嫌って田舎に逃れた身だ。たまにこうして味わう分には構わないのであるが、こうした眩しさの中で日々を過ごすと考えるとゾッとするし、昔の僕は実際それに疲れ切っていた。

 浅草の駅前にバスが到着すると既に日は落ち切っていた。金曜の夜ということもあってか、会社上がりのサラリーマンらしき人々の姿も目立つ。足早にバス停の交差点を挟んだ反対側にあるバーを目指す。入り口脇のレジで電気ブランと煮込みの食券を買い求め、喫煙席について早速煙草に火を点けた。アーク・ロイヤルの、バニラとも紅茶ともとれる甘苦い芳香が口の中に広がる。一息ついて、酒と料理を待ちながら『異邦人』の続きを読み進める。

 ムルソーは確かに殺人を犯した。この点は疑いようがない。まさかそれが暑さによる幻であったということはあるまい。彼自身自分が人を殺めたということは認めているし、作品の中でもそれは揺るぎない事実として扱われている。ムルソーは一体如何なる人間なのかということが、この作品の一つの主題であり謎である。いやむしろ、ムルソーのような人間が、当時の社会に於て如何なる存在であると見做されるかということが主題であると言っていい。

 外側から見れば何ら脈絡なく人を殺めた人間というのが、法廷という一つの社会の縮図の中で、どのように裁かれ処刑されるに至るのか。それを描くことでカミュはきっと、ムルソーという人間の奇妙さ、不気味さではなく、むしろありふれているであろう彼のような人間が「異邦人」となってしまう社会的文脈の異常さを描き出そうとしたのではないだろうか。殺人という行為がありふれているというのではない。ただムルソーの処刑を決定的にしたのは「母親の葬儀で泣かなかった」という外的な人間性の評価であった。何とも無茶苦茶な話であるが、おそらくその無茶苦茶さをカミュは問題にしようとしたのではないかと思う。

 煙草をふかしながら本をめくっていると、酒と煮込みの皿が運ばれてきた。なみなみとグラスに注がれた電気ブランとチェイサーの氷水、そして味噌の香るモツの煮込み。本をいったん閉じて食事に移る。電気ブランの痺れるようなアルコールの舌触りと、モツの若干の獣臭さが重なり、何とも言えない味わいが生み出される。生きていなければ味わえない、この感触。けれどもカミュは、それでもと問うてくる。お前の人生に生きる価値はあるか、生きる意味はあるかと。ここは『異邦人』と『シーシュポスの神話』の組み合わせだ。あとがきによれば、サルトルは、後者は前者の「正確な注釈」だと言ったのだという。かといって、後者の不条理の理論、その英雄像がそのままムルソーに当てはまるわけではないのであるが、それは小説故であるとも、述べている。明らかなことは、ムルソーが人生の意味だとかそういったものを否定し、それでも尚不条理に立ち向かって生きようとしていた、ありふれた一人の人間であったということである。彼の「本当の」内面、そのうちから発する叫びは、正しく絶叫となって、最後に司祭に向けて発されている。

 カミュが言う不条理というものを、僕はまだ正しくは理解していないだろうと思われる。不条理というものを説明してくれと言われてもできないであろうから。ただ、ある種の無茶苦茶さと、それを解決したくてもできないというその間の葛藤に現れるものなのではないかと、何となくではあるが感じるところはある。世の中そういうことだらけだと言いたくもなる。しかし最大の不条理とは、人間の生まれ、その生そのものにあるのではないかと僕は思う。生まれる前のことなんて覚えていないけれども、おそらく世にある苦しさを知っていれば、生まれることを望みはしないのではないか。それでも尚生まれてきてしまい、様々な不条理に立ち向かい生きていかねばならないという人間の生の状況そのものが、最大の不条理であり呪いであるように思えてならない。だからカミュは言ったのだ。世界が何次元であるかとかという問いよりも前に、己が生きる意味、何故そうまでしてこの不条理さの中で生き続けようとするのかを問えと。これは等しくすべての人間に課せられている問いである。

 その果てにカミュが見出した人間像というのは、生きる価値なしとして自殺するのでも盲信に走るのでもなく、たとえ生きる意味や価値というものが存在しないことが理解されたとしても、不条理と正面から向き合い、それに抗って生きようとする「不条理の英雄」像であった。シーシュポスは岩を山頂まで押し上げるが、山頂から岩は転がり落ち努力は水泡に帰す。それでも彼は岩を押し上げることをやめない。人生というのもそれと同じなのだ。最後に死という、すべてを水泡に帰す結末が待ち受けることは決まっている。それでも岩を押し上げて強く生きよと言っているのではないだろうか。

 ムルソーが母の葬儀で涙しなかった理由はこれかもしれないとこの時思った。ムルソーはシーシュポスではないけれども、不条理に抗おうとした一人の人間ではある。あくまで一人の人格として描かれているのであるからそう単純に説明されることのない奥深さを有しているのであるが、その不条理さを知るが故に涙を流さなかったというのは一つ筋の通った話だ。彼が最後に、処刑の時にあらん限りの罵声を浴びることを望んだのも、最大限の不条理さで以て我を迎え入れよという、一つの挑戦であるようにも思われた。

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貝音 尚

人類学専攻の大学生。身辺雑記を中心に随筆を主に書いています。
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