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青年団リンク やしゃご「アリはフリスクを食べない」雑感③ アリにとってのフリスク編

 さらに時間が空いて、今回で三回目。今回で最後にしようと思ってます。あの、時間がたつと細かいとこまで覚えてられなくて・・・苦笑

 ただ、一番初めから書きたいことはこの「アリはフリスクを食べない」という題名についてで、そのために前二回があったようなものです。ここでは僕が感じたり考えたりした「アリ」と「フリスク」についてちょこっと書いてみたいと思います。

アリvs0calシュガー

 そもそもアリはフリスクを食べるのでしょうか。アリがフリスクをたべるとすればそれはフリスクに含まれる「糖分」にひかれているからですが、フリスクに糖分は入っていません。そのかわり人工甘味料としてアスパルテームが入ってます。ダイエットコーラとかに入ってるやつです。たぶん。

 ではアリは人工甘味料を食べるかと言えば、お察しのとおり食べるわけがないです。ここでちょこっと面白い記事があったので下にリンクを貼っておきます。

アリは人工甘味料“0calシュガー”には騙されない! 人間とアリの決定的な違いとは・・・ - 生物ちゃんねる

 まとめサイトからの孫引きで恥ずかしいですが学術論文でもないし。5ちゃんの元のスレも確認しましたが、立てられたのが2014年の9月。ちょうどこの演劇が初演された時期と重なっており、ちょっと興味深かったです。

 ちなみにもう一つ。

成甘味料でアリが死ぬ実験結果が恐ろしい件 –シリコンバレーから日本のまごころを

 さっき書いてたアスパルテームという甘味料ですが、発がん性やらなにやら人体に対する悪影響はちょくちょく聞いていました。だけど殺虫剤になるって・・・。

アリとフリスク

 もうここまで来たらわかると思いますが、アリは智幸をはじめとした障害者であり、フリスクは健常者からみた障害者とその理解のされ方の隠喩なのだと気が付きました。

 そうは言うもののこのタイトルに自分自身驚くほど魅力を感じているのはその言葉のニュアンスの妙です。アリはフリスク「を」食べないのです。

 アリにフリスクを与えていたのは、智幸の周りの自称良き理解者たちでした。フリスク「を」食べないのなら何を食べるのか。もちろん天然の甘味成分でしょう。アリには彼らが与えてくるものがフリスクだとわかっていました。味は甘いけれど、その実栄養にはならない薄っぺらいうわべだけの人工甘味料を。そしてそれがやがては自分を殺していくことも。

 さらに問題なのはこのフリスクをあげていた自称良き理解者は、この行為に一切に疑問を持たず善意として延々とフリスクをまき続けたということです。その裏には、自分たちは天然と人工甘味料の違いは分かるけれど、障害者にはそんなもの区別がつくわけがない、一緒だという無意識下の差別意識がみてとれます。

理解

 こう書くとひどいことのように思いますが、私たちは障害者に限らずこのような態度や言動を日常的に他人に浴びせています。電車の中で叫ぶ、おそらく精神疾患であろう人には目を伏せて黙殺するのもそうですし、本人の意志とは関係なく年寄りだからという理由で席を譲るのもそうです。あの人はああいう人だから、ああやって対応しておこうというのも。テンプレート化され、マニュアル化された理解の形は世の中のいたるところに転がっています。そして私たちはそれが理解であり寛容であると信じて疑わなくなりました。

 テンプレート化され、マニュアル化された理解に足りないものはわかっています。その人を一人の人として承認し理解しようとする能動的な態度です。だが、これは本当に難しい。電車の中で叫ぶ人に向かって自分にも行き先と時間制限がある中で「どうしたんですか?お話聞きましょうか?」などと言える人はほぼいないと考えてよいでしょう。それならば受動的にマニュアルに沿った理解の形をとる方が手っ取り早いし、世間受けもよいからです。

 このことを考え始めてから、自分は人間を理解するというほぼ不可能に近いことはこんなにも難しいのかと改めて実感させられました。

 話を作品に戻しましょう。前述のようにアリはフリスクを食べないのですが、劇中でのアリこと智幸は、それを知りながら食べちゃうんですよね、フリスク。自分には何の栄養にもならない薄っぺらいものだけれど、食べ過ぎると自分を殺すものだけど、彼らの笑顔が智幸にフリスクをどんどん食べさせていくんです。だから智幸はどんどん死んでいくのです。施設に行くといったのものもしかしたら半分は本心だったのかもしれません。

 自分を押し殺していく中で、彼らの中にはちゃんと天然の甘味料をくれる人たちもいましたよね。そう、三上と林先生です。智幸にとっては劇薬ともとれる三上はさしずめ精製された上白糖、温かく智幸の心の奥底を見守り続けた林先生はもっと天然に近い果汁などの果糖といったところでしょうか。あ、そうそう、自分ときちんと向き合って接してくれる加奈子ちゃんもそうかもしれません。性の問題も書こうかと思いましたが、これに関しては様々な文献があるだろうしここでは書かないことにします。

ラストシーン

 こう書いていくと、あれ?アリはフリスク「も」食べてるじゃないかということになりますが、実際智幸は彼らの善意のフリスクをたらふく食わされているのですから仕方ありません。でも本当は食べないんです。アリはフリスク「を」食べないんです。智幸が意識的か無意識的かは別にしてそれを示す、つまり作品のタイトルを象徴するのが、あのラストシーンであると僕は思っています。ただ、これは解釈が分かれるところでしょう。気になる方はまた上演した時にでも確かめてみてはいかがでしょうか。実際またやってほしい作品だと思います。

 長々と書いてみると、本当に懐が深いというかちょっと違うんですが懐の形が僕好みのいい作品だなぁとしみじみしたり。彼らの状況は一連の出来事と紆余曲折をへて少しずつ変わりますが、根本的なことは何一つ変わらずに、基本的にこの作品で問われた問題提起は何一つ解決しないまま進んでいくような気がしました。希望という終わり方ではなかったように感じます。なぜなら、

 障害者もまた私たちと同じ人間であるからです。

チョコ棒を買うのに使わせてもらいます('ω')