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青年団リンク やしゃご「アリはフリスクを食べない」雑感②  障害者と見る目、理解の形編

 だいぶ間があいてしまいましたが、今回は、青年団リンク やしゃごの「アリはフリスクを食べない」の感想第2回です。今回は個人的にぐっときたシーンを中心に、前回を受けて智幸とその周りの人たちとの関りと認識について書いてみたいと思います。

 空気を読む彼のその内面性

 智幸の周りの人間はどれも智幸のことを理解しようとしている理解者たち。ただその方向はそれぞれという感じですが。前回書いた三上のような、障害者であるがゆえに受ける苦しみから逃げずに面と向かって問題にぶつからせるタイプもいれば、社長のように、自分たちの家族同然ゆえに障害者であるがゆえの苦しみなどない方がいいという人と・・・いろいろ。

 なにが違うのかと考えたところ、障害者である智幸と健常者である自分の関係性の位置の違いがこのような同じ理解者でも違う理解の仕方をしている原因だと思い至った。つまり、自分は障害者をどのような観点というかスタンスでかかわりあうかということがそのまま彼らの理解の形につながっていく。だからこそ最後そのかかわりあい方を歩が少しだけ変えることによって歩の理解の形もほんの少しだけ変わったような気がした。

 自分とは違う。ではどう違う?自分のような健常者として生きていくことができない不幸で可哀そうな存在なのか?たぶんあそこに出ていた誰もがそうは言わないだろう。けれど態度は確実にそう言っている。そこが問題なのかなぁとも思った。差別感情ともいえる。

 智幸の話をするとき、話を聞かれないようにするために流れる音楽。母親が録音して以来ダビングを重ねて音質が劣化した音楽。これを智幸が自身でかける場面がある。僕の話をするときは音楽をかけなきゃだめだよ。僕はそんなことは聞きたくないんだ。僕はやっぱり邪魔なのかなぁ…という声が聞こえてくるようだった。彼はこの音楽がかかるとき、つねに人のことを考えて重苦しい空気を読んでいた。

 歩が先走って智幸を施設に入れることを話し始めて婚約者の舞子と口論になりそうになった時も智幸は歩と舞子のことを考えていた。施設に入ると自分から言いだし、いかにも何もわからない風を装って笑顔でいう「カレー作ろ?」というところにはぐっと来てしまった。喧嘩ばかりしていた両親の間でおろおろしていた子供の頃を思い出した。

 空気を読む障害者。彼らのスタンスでの理解が進めば進むほど、智幸は本音を押し殺し、彼らの空虚な理解の空気を読んでいくことになる。どんどん気を遣うようになっていく。皮肉としかいいようがない。

 そんな智幸の可能性と人間性に目を向けていたのは、グループホームの林先生だろう。彼は吃音であることと、ちょっとした紹介の情報不足で当初、智幸と同じ障害者であると思われていたが、実際はただ吃音のある健常者だった。これはみていて自分でも驚いたけれど、一度障害者だとみてしまうとそのインパクトはものすごく、もうそのあとこの人は健常者ではないか?という疑問すらおこらなくなっていた。しかもその判断材料は見た目だった。これが僕たちが障害者を見ることの見方のすべてを表しているのではないかと思った。

 林先生は、登場人物の中で唯一智幸の内面性に言及した人物だ。そういう意味では三上と同じく真の理解者と言えるかもしれない。他の人物は驚くほど智幸の内面性にまるでタブーかのように言及しない。彼の感情や嗜好にしか言及しない。彼には彼の考えやポリシーがあるとは思っているかもしれないが、それを認めているものはいなかった。智幸もこのような人間たちの中で空気を読む中で内面性を発露させることを無意識的に抑えていたのかもしれない。林先生だけが唯一彼の内面性を知っていた。

 理解するといいながら、僕たちは障害者を本当に理解しようとしたのだろうか、彼らの声を真に理解しようとして聞いただろうか。こうやって関わればいいというような定型に当てはめたり、理解しあうことをあきらめて、自分とは分かり合えない可哀そうな人として、自分には理解不能のものとして接してはいないだろうか。

グループホームでおきたいじめをやめさせた智幸。「彼は、強い」といっていた林先生の言葉が胸に残った。

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ぜんざい しる子

息を吐くように息を吐く。

ぜんのカンゲキ

カンゲキ ノ キロク
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