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蜘蛛

 部屋の壁紙の凹凸を天井まで舐めた眼は考えた。

 蜘蛛がいなくなった。

 1センチにも満たないその小さな生物は、部屋の壁という壁を這い、時にはぴょんぴょんと飛んでいた。大の虫嫌いな私は始め絶句をしたものだが、「家蜘蛛を殺してはならない」という慣習に縛られてしばらくそのままにしていた。

 そのままにしているといい気になったのか蜘蛛は私の眼の先にたびたび現れるようになった。パソコンのモニタの向こう側、横になったときの天井、電灯の笠の中と。こうして見ている内に、私はなんだかうちの蜘蛛に愛着にも似た感情を抱くようになった。

 調べてみると蜘蛛は益虫で他の害虫を駆逐してくれるらしい。私の大嫌いなあの黒い虫を見なくてすむのは、もしかしてこの蜘蛛たちのおかげなのかもしれない。そう思ったのだ。ここの所人と話すことが極端に少なくなったせいか、私は蜘蛛を見かけると日ごろの礼など一言二言、話しかけるようになっていた。

 その蜘蛛がいなくなった。

 歳時記によれば、蜘蛛は夏の季語なのだそうだ。冬にはどうしているのかというと、部屋掃除で答え合わせができた。ベッドの下でほこりにまみれて小さくなった蜘蛛の死骸が一つ、掃き出された。私は、仰向けになった蜘蛛をじっと見つめた。言葉は、出てこなかった。

 そのあとも何事もなかったかのように掃除は進み、何事もなく一日が終わろうとしている。

今も時折天井を眺めてみるが、あの時なんといっていたのか、どんな風な調子で話していたのか、もう思い出せない。

チョコ棒を買うのに使わせてもらいます('ω')