がんの告知を受けたときの話

2020年3月に、家族のがんの告知を受けてから、気づいたら3年が経ちました。
5年生存率、10年生存率……そういう言葉が目に入る世界で、ああ、3年生きたのだな、と思います。

遠からず、3年経った今考えていることをまとめておきたいと思うのですが、ひとまず当時の様子をふせったーに書いていたものをこちらに移植しておきます。
いつも見守って下さる皆様が、ご自身を、ご自身の大切な方々との時間を、大切にお過ごしになるための、わずかなきっかけにでもなりますように。
私も当時のことを忘れずにいるために、読み返そうと思います。

※転載した本文中に、遠隔転移無しとの診断に言及していますが、現在は転移が起きております。

・・・・・・

※2020年6月21日の投稿より

家族が抗癌剤治療を始めることに関して
自分の考えの整理と、フォロワーさんにお会いしたとき等に状況が分からないと余計なお気を遣わせると思ったので。

3月13日の25時ごろ、普段通り仕事から帰宅してすぐ母に声をかけられました。
「zofiaさんにお話があります。私、癌なんです」
刃物を抜くように、まさに単刀直入でした。
母は精神的に大変自立した人間です。その後も要領よい淡々とした説明を受けました。
長い間、症状には気付いていたそうで、いよいよこれが何なのかはっきりさせる気になり検査を受けたところ、進行した癌であったとのこと。3日後に、横浜のがん診療の拠点たる病院のひとつへ行き、さらに検査と診察を受けることになっているということでした。
癌になっても治療をするつもりは元々無かったし、癌で死ぬのは構わないが、このままでは色々と処置が難しくなるため兎に角手術は受けた方がよいと言われ、そうするつもりだと。
但し抗癌剤等の積極的な治療はしたくないとのことでした。
私からは「病についてはっきり知ることは勇気の要ることだからすごいと思う」「兄さんへの連絡は面倒だろうから私がやっておきます」とか何とか、そういうことを言ったと記憶しています。
母が床についてから。
涙が止まりませんでした。

(その晩、鍵付きのアカウントの方で少しこの話をしたとき、声を掛けたり見守ったりしてくださったフォロワーさん達のお優しさに本当に救われました。有難う御座います。)

それから暫くは悪夢を見ているようでした。悪い夢であったならと何度も思いました。時折病院に付き添いつつ、その足で仕事に向かう生活の中で、仕事の方も感染症の影響を受けて難しい局面を迎えており疲弊していきました。
強くあらねばと思いながら、何が強さで、どうしたら強くなれるのかもわかりませんでした。

診察を控えた土日のあいだ、何かしなくてはと思いながら、結局何もできませんでした。元気でいられるうちにしたいことは? 行きたいところは? 聞いてみたくても聞けなくて。
ただ、母の前でだけは絶対に泣くまいと、そのことだけに必死だった気がします。

翌週病院へ行って、彼女が記入した問診票には「自覚症状は3年前から」とありました。
3年間。
3年間私は何をしていた、と考えました。
前の家から小さなマンションに母と二人で越してきて、翌年には転職をして、3年前というとその頃。私は自分の仕事が大変だとそればかりで、何も知らなかった。毎晩遅くに帰ってくる私を母は必ず起きたまま待っていた。無理をさせた。3年、という言葉ひとつが酷く辛かった。

CTやMRIを撮る前には、造影剤の副作用のリスクがあるため同意書を書きます。
稀に死亡する場合もあるとのこと。プロの方がお聞きになったら可笑しな話だと思いますが、同意書を必要とする検査に行く姿を見送るたびに、「これで最後かもしれない」と思いました。

発症から時間が経っていることもあり他の臓器や骨への転移も十分有り得る、1週間後に詳しい検査の結果が出るためそれを見て今後の方針を決めましょう、というのがその日の医師からの話でした。
状況によっては「治す」ための治療はできないと。つまり、いわゆる緩和ケアをしながら死を待つことになるのだと理解しました。

結果が出るまでの1週間を執行猶予を受けたような気持ちで過ごしました。
初めて診察に同行した日からつけ始めた手記があります。
3月23日、結果を聞く日の午前3時ごろの記述
「色々なことに心が動かなくなっているのを感じる。感情の感度が鈍い。声だけ言葉だけ笑って、顔は笑っていないような。
悲しみにも何にも心を動かさずにいられることもまた強さというのだろうか。」

検査結果では、今のところ遠隔転移は見られないとのことでした。幸運なことでした。
ステージは3、そして「治す」ための治療をするのであれば手術ののち、抗癌剤・放射線・ホルモン剤の3本立ての治療をするのが、この病状であれば普通であるとのこと。
色々とご説明を伺っても、抗癌剤を拒否する母の気持ちは変わりませんでした。手術が終わった後もそれは同じでした。

進学、就職、転職、着るもの、何にせよ私の生き方に一切干渉してこなかった人です。結婚や出産を求めるようなことも言われたことがありません。私はそれに大変感謝しているので、私自身も母の生き方に干渉すまいと考えてきました。
今回のことについてもです。

本心では、
生存率が上がるのであれば抗癌剤も頑張ってほしかった。
どの道手術でも辛い思いをするのなら、もう少し頑張って、どうしても難しければリタイアしてもいいのではないかと言いたかった。
でも辛いのは本人ですから、そんな無責任なことを言ってはいけないと思いました。

生きてほしいと思うのは私のエゴでしかないのだから、勝手に願うまでなら良くとも、それを伝えるのは彼女の重荷になると思いました。
言わなかったら後悔するかもしれないと思ったけれど、それでもこれまで治療の方針に関して一切口は挟んでいません。
ただ出来る限り傍に居ただけ。特に病院に付き添う日には思い付く限りの馬鹿な話をして笑わせて、休日には食事やお茶を共に楽しむ時間を作って、それだけでした。

母の、生に対する執着の無さは何処から来るのだろうと考えました。
母が私と暮らす生活に未練を持たないことを悲しくも思いました。彼女が泣いて取り乱すようであれば私はいよいよ困っていたに違いないので、これは無い物ねだりというものですね。

殆ど眠れぬまま向かった病院で手術が終わるのを待ちながら、ただ、最後まで好きに生きてほしいと思いました。

6月9日、手術により分かったより詳細な病状について説明がありました。ステージは3B、細かいがん細胞が組織の間を浸潤していくタイプのがんであり、全身のどこに小さながん細胞があるかも分からない状況であるため、「治す」ことを目指すのであれば全身の治療が必要になるとのことでした。
その日も母の意向は変わらず、抗癌剤はやりたくないと話してはいましたが、決定は2週間後とし、ケモセラピー室の見学、そこを担当されている看護師や薬剤師の方からの丁寧なご説明等、一通り抗癌剤治療のオリエンテーションは受けて帰りました。

6月18日の朝になり、
「抗癌剤をやってみようかという気になっています」と母から話がありました。
病院に対する信頼が決め手になったとのことでした。
「これから始めるとなると、(私の)仕事の繁忙期と重なってしまうから大変だとおもいますが……」と言われて、
「そんなことはどうでもいい」と何度も言いました。

母の気が変わらなければ今週、その意思を病院に伝える予定です。

頑張ってみてほしいと思いはしたものの、やるとなると新たな不安が生じます。「やらない方が良かった」と思うような事態が生じるリスクもあります。(周知のとおり、免疫力の低下をはじめ、抗癌剤治療には様々な副作用があります)
何を選んでも後悔は残るのかもしれません。
怖いです。

けれど彼女の人生は彼女のものですから、私はこれからも、母の決めたことを支援する立場であろうというのが、現時点での私の気持ちです。

もっと早く治療を始めていたら、大ごとにならなかったでしょう。よく聞く話ですね。
私自身は2年に1度、簡易的な人間ドックを受けて、その中に2種ですががん検診も付けています。母にすすめたこともありましたが断られ、無理に受けさせることもありませんでした。
考えても詮無いことですし、その点については酷く気にしているわけではないのですが、それでも、「自分だけ検査を受けていたのは順番が違うだろう」と情けなくは思いました。

皆様と、皆様の大切な方たちのご健康の為に、この経験がほんの少しでもお役に立てますように。
そしていつも温かく見守って下さる皆様に感謝をこめて。
皆様のお陰で気持ちも随分落ち着き、こうして今日までを冷静に振り返ることができました。
いつも有難う御座います。

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