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令和における鎚起銅器の見取り図

——遠く離れたイタリアにおける「イントレチャート」が鎚起銅器の「鎚目」と符合する必然について。
あるいは、成形手法における新・旧鎚起銅器という腑分けによる現代的見取り図についての考察——


 「鎚起銅器とは何か?」という問いに対してひと言で答えることは簡単ではない。それは、鎚起銅器に対してただひとつの「点」を見いだそうとするからであって、鎚起銅器の周りにある複数の「線」を拾い上げることができれば、全体像が浮かびあがる気がしている。
 「線」とは、ある種の「変遷」としてある。まずは、鎚起銅器の表面における図と地の話と時間軸を持つ線の話の二つに分けて順番に考えていきたい。

徹底的に立ち遅れたものだけが先端に立つことができる

 鎚起銅器を工業化(量産化・効率化)に立ち遅れたものが時代の変遷によって伝統工芸というラベルを貼ることでたくましく生き延びていくという物語としてあらためて捉えてみたい。工業化が進む時代においては、人の手でつくっているものよりも、機械でつくったもののほうがむしろ価値があった。そして、工業化が定着し、機械がつくるものばかりになっていくと、手しごとの価値が再発見(再評価)されていく。時代背景ががらりと変わることによって、立ち遅れていたものが、貴重でかけがえのないものになる。
 というのも、あるときの鎚起銅器は、彫金を美しく見せるために、表面の鎚目をヤスリで削って砥石で研いで、つるつるにしていたのだという。
 つまり、表面は彫金を美しく飾るためのホワイトキューブとなっていたのだ。彫金のためには不要だった「鎚目」を消し、美術品としての「彫金」をほどこす、という時代がいつしか終わり、あるとき(*1)から「鎚目」を残していくことになる。「彫金」という「図」が引き立つための「地」でしかなかった「鎚目」が「図」そのものになっていく。

 話はイタリアに移る。
 1966年に創業したボッテガ・ヴェネタ(BOTTEGA VENETA)は「イントレチャート」(革をメッシュ状に編み込んだレザー製品)を開発し、その独特な革織りはブランドの代名詞になっていく。「イントレチャート」そのものでブランドを認識できるようになったため、当時ロゴは製品の内側に目立たないように表示されているだけだった。しかし1980年代になり、製品にBVロゴを入れていく路線変更がなされたことによって低迷し、倒産寸前となってしまったことで、2001年PPR社(現在のケリング社/グッチなどを持つフランスのコングロマリット)が買収することになる。当時グッチのクリエイティブディレクターだったトム・フォードがトーマス・マイヤーをクリエイティブディレクターに任命し、それ以後、ブランドの代名詞であった「イントレチャート」の編み込みを強調し、卓越したクラフトマンシップという創業精神に立ち戻り「目に見えないラグジュアリー」を具現化することによって復活をとげることになる。雑誌『VOGUE』はこのブランドの新しいスタイルを説明するために「stealth wealth」(*2)という言葉をつくりだした。

 鎚起銅器における「鎚目」はボッテガ・ヴェネタにおける「イントレチャート」であり、それはまさに「目に見えない財産」として存在している。
もちろんこれは、ルイ・ヴィトンの「モノグラム」などの一見してそれとわかる「目に見える財産」に対するアンチテーゼとして捉えることができる。つまり、誰もがすぐにわかるよりもむしろ、わかるひとにだけわかる、という見えなさ(わからなさ)に価値の一部が移行したと言っていいのではないか。だとしたら、このような「図」を引きたてるためのホワイトキューブとしての「地」から「地」そのものを生かすための透明な「図」という転倒はいつから起きたことなのだろう。


整えられた「地」とあるがままの「地」

 話を新潟に戻す。
 21世紀の幕開けを目前にして、2000年に越後妻有地域(新潟県十日町市・津南町)にて「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」がはじまる。
 そのおよそ十年後の2011年、スノーピーク本社が広大なキャンプフィールドとともに、新潟県三条市の旧下田エリアに移転している。そしてさらにその十年後に敷地を約五万坪から約15万坪へ拡張し、2022年には「Snow Peak FIELD SUITE SPA HEADQUARTERS」として温浴施設を中心とした複合型リゾートとなっている。
 ともに地元新潟県におけるエポックメイキングな出来事として記憶している。

 整えられた「地」とは、人工的な高層ビル群や美術館におけるホワイトキューブを、あるがままの「地」とは、新幹線駅からも高速道路のインターチェンジからも遠く離れた里山を意味している。
 つまり、かつて「なにもない」ように見えた田舎の原風景が「あらゆるものがある」と反転させることができる魔法として、野外アートとアウトドアがあるのだ。

 これは、アート作品を引き立たせるためのホワイトキューブを設けたり、彫金を引き立たせるために鎚目を消すという人工的な操作なしに、20世紀の私たちにとって見ることができなかった財産として、里山の自然や鎚目があったことのよき事例となっている。鎚起銅器の「鎚目」も地球における「里山」のような、あるがままの自然としての共通性としてあり、それが21世紀における「刻印なき」ブランドをつくりあげている。


令和における鎚起銅器の見取り図

 では次に「図と地」からすこし離れて、時間軸を遡りながら、令和における鎚起銅器の見取り図について考えてみたい。

 鎚起銅器をざっくりと定義するとすれば、「燕市でつくられている鎚目のついた銅製品」ということはできる気がしている。
 つまり、
 ①燕市でつくられていること
 ②鎚目がついていること
 ③銅製品であること
は、いずれもなくてはならない(十分)条件としてある。
 では、それ以外の観点として何があるのかと言えば「へら絞り」と呼ばれる成形技術ではないかと思う。
 へら絞りとは、陶芸における轆轤のようなもので、回転する金属にへらを押し当てながら成形していく手法で、戦後ほどなくして玉川堂をはじめとする工房が鎚起銅器に導入することでそれまでの成形を省力化してきた経緯がある(*3)。
 ちなみに2017年にオープンしたGINZA SIXの玉川堂において、インバウンドのお客さんを中心として人気となっている「口打出の湯沸」(*4)については、「へら絞り」ではなく、「打ち上げ」(*5)での製作となっている。もちろん「へら絞り」という技術が入ってくるまでは、すべての鎚起銅器は「打ち上げ」でつくられていて、「一枚の銅板を叩き上げてつく」られたものが鎚起銅器であった。そういう意味において、「へら絞り」以前以後で鎚起銅器は大きく変わった、ということを確認しておく。
 ここで「へら絞り」を使うことなく「打ち上げ」だけでつくられた鎚起銅器を「旧鎚起銅器」と呼ぶことにしたい。大橋保隆は、この「旧鎚起銅器」を製作する職人である。


新鎚起銅器の登場

 鎚起銅器をつくる会社は、玉川堂だけではなく、燕市内を中心に数社存在しているが、それ以外にも1959年に非鉄金属の製造をはじめた「新光金属」がある。その事業内容は「銅製器物製造販売」となっている。
 「新光金属」の銅製品にまつわる受賞経歴をウェブサイトで見ると、1989(平成元)年に「新槌起銅器/水割りセット」にて「通商産業大臣賞受賞」とあり、それを皮切りとして1991年から1992年にかけて「新槌起銅器」シリーズで4件の受賞をしている。
 平成元年に「新光金属」によって「新槌起銅器」という商品が開発され、そのシリーズが複数の賞を受賞していることに注目しておきたい。これは従来の器物製造から鎚起銅器に新たに乗り出した商品群としてあるがゆえの「新」鎚起銅器であり、成形手法として「へら絞り」だけではなく「プレス加工」も含めたより自由度の高い手法を取っていることが特徴である(さらに言えば、熱伝導率の高さだけではなく、銅イオンによる抗菌性や水道水の塩素を分解・除去、銅欠乏症貧血の予防などの銅の「効果」を強く謳っていることも特徴のひとつとしてここに書き添えておきたい)。

 ではあらためて「鎚起銅器」における「線」について整理しておこう。

1. 玉川堂をはじめとする燕市の鎚起銅器工房が、戦後以降「へら絞り」を導入することで成形を省力化し、表面の鎚目に専念することで、生産性を高めていく「線」→「鎚起銅器」

2.  大橋保隆がへら絞りなき時代に戻って、一枚の銅版を叩き上げて(打ち上げで)製作している「線」→「旧・鎚起銅器」

3.  新光金属に代表される器物製造会社が持ち前の成形技術の上に、
職人と呼ばれる社員によって鎚目が付けられて新鎚起銅器になる「線」→「新・鎚起銅器」


 冒頭で投げかけた「鎚起銅器とは何か?」という問いに対して、「鎚起銅器」「旧鎚起銅器」「新鎚起銅器」という3つの「線」がその答えになっているように思う。
 ここで言いたいことは、オーセンティシティー【authenticity】(*6)を問うて、それぞれの真贋を言い立てるつもりはまったくないということだ。すべての線の総体が現在言われている「鎚起銅器」であるという全体性を確認してもらいたい。
 たとえば、新光金属の「新鎚起銅器」はリーズナブルな価格帯としての提案が鎚起銅器の裾野を広げているとも言えるし、玉川堂が「鍛金」を学んできた美大生に対して、それこそオーセンティックな仕事を提供している(職人を育て続けている)ことは、「鎚起銅器」という領域全体に間違いなく寄与している。そして大橋保隆は「旧鎚起銅器」としてかつてあった鎚起銅器職人としてのあり方を継承し、保存している。
 このようにそれぞれの仕方で(相談などまったくすることなしに)「鎚起銅器」の間口を広げながら、奥行きをつくりあげていることは、同じ燕市という産地における「協調なき連帯」と見ることができる。

 最後に、鎚起銅器を成形する際のへら絞りと打ち上げに要する時間について考えてみたい。

 へらを押し当てて成形する時間を1としたら、旧鎚起銅器職人が「打ち上げ」によって成形する時間はおよそ10かかるという。まさに「打ち上げ」によって必要とされた時間は、「stealth wealth」(目に見えない財産)ならぬ「stealth process」(目に見えない過程)と言えるのではないか。叩いては、焼きなますを繰り返し、底面の広さが少しずつ高さに振り替えられることによって生まれたフォルムは、じっさいへら絞りがつくりだしたそれと大きくは変わらない。この「目に見えなさ」の背後に大橋保隆が修行した25年という時間やつくりだした時間そのものの堆積を感じることができるのか。それが問われているような気がしてならない。かつての鎚起銅器のつくりかたそのものを引き継ぐということは、目に見える仕方で鎚起銅器それ自体に現れるわけではない。私たち買い手、使い手が鎚目の存在をもってそれを鎚起銅器と思うのであれば、彼が積み重ねた時間を目で見ることはできないかもしれないし、だとしたら無意味とさえ言えるのかもしれない。
 ただボッテガ・ヴェネタの事例における、象徴的なモノグラムが存在しないにもかかわらず、そこにありありと存在する「イントレチャート」こそが逆説的にブランドをブランドたらしめているという倒錯にこそ注目してきた。だとしたら、ぱっと見わかりにくいことに十倍もの時間をかけていくという「見えないプロセス」はさらなる倒錯がそこにあると言うことができるのではないか。

 だれもが気づくことができるわかりやすいものに、あるいは、気づくひとだけがわかりうるものにだけ、ブランドとしての刻印が立ち上がる。鎚起銅器は今、旧鎚起銅器と新鎚起銅器の存在によって、その両方向から接近し交錯することで、広い間口と深い文化性を持ち合わせた伝統工芸ブランドになりつつあるように思う。とはいえ、これは、専門家だけが見ることができる鎚起銅器の系譜や見取り図とは遠く離れた、あくまでも素人としての、俗物としての考察に過ぎないことをここに言い添えておきたい。かすかな希望があるとしたら、倒錯したまなざしによってだけ見ることができるものがありうる、ということだけだ。

(*1)玉川堂五代目玉川覚平(1901―1992)の時代に、彫金という美術工芸の時代から実用品、いわゆる道具の製作に移行していったとされるが詳細は定かではない。

(*2)stealth:「こっそりした/忍びの」wealth:「富/財産」

(*3)へら絞りもプレス加工も、金属を押して変形させていくことは共通だが、プレス加工では「オス型」と「メス型」の2つの金型を必要とするのに対し、へら絞りはオス型ひとつで加工できるという違いがある。

(*4)胴体と注ぎ口に継ぎ目がなく、一体になっている湯沸かし。

(*5)1枚の銅板を叩き上げてつくる手法のことで、全体を叩くことで固くなった銅に「焼きなまし」を行い、また叩く、ということを10回以上繰り返して成形していく。


文章:田中辰幸(ツバメコーヒー店主)

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