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ドラマを生み出す野球の構造的面白さ、宇宙的な仕組み

子どもの頃、野球に感動を覚えることはなかった。サッカーに熱狂していたせいもある。長い試合時間に加え、暑苦しい挨拶、部活動では坊主にしなければならないなど、長髪にあこがれた青春時代の僕には格好よく見えなかった。根は真面目でつまらない僕は、チャラチャラしたサッカーの方が格好良く見たのである。しかし、今ではどうだろう。野球のない人生なんて面白くない。プロ野球がオフシーズンとなる11~2月はもっとも寂しい季節だ。この記事を書いているのは3月上旬。オープン戦が始まり、シーズンのはじまりを指折り数えている。

野球のプレイヤーであったことは一度たりとてない。だが、野球には、人生と宇宙の仕組みが隠されているように思えてならない……。

きっかけは仕事で疲れ切って、黙々と白ご飯をほおばっているときに見た、ホームラン。あれはまだ中田翔選手が北海道日本ハムファイターズで活躍していた時代だ。僕は当時、函館にいてシーズンともなれば日本ハム戦がテレビで放映されていた。他に見るテレビもないのでぼんやり眺めていると、中田選手の前の打席の近藤健介選手が敬遠され、塁は満塁となった。解説者は「4番の意地を見せられるか?」というようなことを話していたと記憶している。「4番の意地ってなんだ?」と思った。そのとき、中田選手は、一球目を振りぬきホームランを放ったのである。小さな白い球は、球場の上空を高々と舞い上がり、レフトスタンドに吸い込まれた。美しい軌道であった。

打率の高い打者との勝負を避け、次の打者で打ち取る「敬遠」という戦い方があると知ったのはその直後のことだ。「意地を見せましたね~」と実況は言っていた。4番打者は打席の軸となる存在であり、もっとも得点力のある選手の打順。サッカーで言えばストライカーか。中田選手はその試合で3打席たってヒットを打てていなかった。相手は、確率性の高い近藤選手より中田選手との勝負を選び、打ち取る作戦だったのである。僕はご飯を食べる箸が止まっていたことに気付いた。そのホームランにすっかり、魅せられていた。

それからというもの、テレビで野球観戦をすることが楽しみとなった。以前は冴えないおじさんがビールを飲みながら、寝転んで観るようなつまらない娯楽だと思っていたが、いつの間にか移動中にさえラジオで野球中継を聴くような熱心な野球ファンとなっていた。

僕はなぜ、あれほどつまらないと思っていた野球にのめり込んだのか、考えた。長いこと、考えてようやく気づいたことがある。野球というスポーツが色々な人生ドラマを生むのはグラウンドの設計にあるんだと。ダイヤモンドと呼ばれる、本塁、一塁、二塁、三塁を結ぶひし形のレイアウトには、宇宙の仕組みが隠されている。

各塁間の長さは38.8メートル。この距離が絶妙だ。人の走る速さと、球の速度がほんの小さなさじ加減で、アウトになるかセーフになるか変わる。盗塁の場面を考えてみると分かりやすい。ピッチャーが振りかぶり、球を投げる。一方、一塁走者が二塁へ盗塁しようとする。気づいたキャッチャーが、盗塁を阻止しようと二塁へ投げる。このとき、走者はピッチャーの不意を突き、出来るだけ早い段階でスタートを切れれば勝機が見える。キャッチャーは正確な投球とスピードが要求される。ピッチャーはカーブやスライダーなど球速の落ちる球を投げるより、早いストレートであるほど、盗塁を防げる可能性は上がる。盗塁の成功ひとつとっても、様々な駆け引きがあり、アウトにするにもセーフにするにも数多くの鍛錬と技術を要するのだ。試合の場面によっては、盗塁がひとつ成功するだけで勝負の節目が変わることもある。1点差のゲームなどまさにしびれる場面だ。

ほんのわずかな差でどちらに転ぶか分からない勝負。レベルの拮抗したプロ野球ではこうした場面を数多く見ることができる。アマチュアとなるとそうもいかないだろうが、これは観る者を緊張させ、ハラハラドキドキさせる。真骨頂はまさに、先ほどの中田選手の場面だ。打てば同点、あるいはサヨナラ勝利。打てなければ負ける。考えてみれば、打率が2割なら10本中8本はヒットにならない。ましてホームランとなれば中田選手ほどの選手でも確率は0.05%以下だ。そう考えると、ホームランとなる確率はおそろしく低い。しかしそのわずかな奇跡を信じて、ファンは手に汗を握り、祈る。

人の心理は、こうした振れ幅が大きいほど、感情が揺さぶられる。結果がどう転ぶか分からない、その直前の緊迫感が強ければ強いほど激しい。あのグラウンド設計は、まるで古代ギリシャ時代に描かれた占星術のグリッドのようで、ダイヤモンドの線は何かが起こるかもしれないシナリオを常に示唆している。そこには無数に生み出されるドラマと一発逆転ストーリーの要素が仕組まれていたのだ。

俯瞰的に見れば、野球はある種のメタフィクションのようでもある。ダイヤモンドの舞台で展開される出来事は、人生そのものを映し出している。走者が一生に賭けてスタートを切る盗塁シーン。キャッチャーとの駆け引きの中で、たった一瞬の気の緩みで運命が変わるかもしれない。一方でプレー一つ一つにも、ヒットかアウトかというだけで、勝敗の狭間がある。結果は常に、勝つか負けるか、二者択一の厳しい世界だ。しかもそこまで積み重ねてきた選手の練習量、時間は計り知れない。ある一面において、人生の縮図のようだともいえるだろう。

野球のグラウンド設計は、予測不可能なドラマを生み出す宇宙的な仕組みが組み込まれているのである。映画やドラマのように脚本はない。一流選手たちの研鑽の結果がぶつかり合いは、実に生々しく、感動的だ。わずかな差で勝敗は決するが、僕たちはやがて、自分なりの物語に変換する。明日への活力にする人は多いはずだ。もちろん僕もその一人である。

ちなみに、中田翔選手には一度、会ったことがある。僕が店長を勤めていたイタリア料理店に来店してくれたのだ。当時はまだ中田選手も高校生。しかし、甲子園で活躍してプロ入り確実と言われ有名だった。野球にまったく興味がなかった僕でも名前を聞いたことがあったくらいだ。そのときカルボナーラを食べて「おしかったです」とニコニコしていたのを覚えている。中田選手は僕に、野球のおもしろさを教えてくれた一人だ。心から応援しているし、今季はとんでもないドラマを見せてくれるだろうと思う。