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『立ち止まる』ということ。あと国難とか。

正月三が日、私の地元は天気の崩れは小さかったが朝の気温の関係で歩道の凍結が目立っていた。3日間どころかこの年末年始買い出しや初詣に行く際は行くときは目的地までバスで行けたとしてもタクシーでの帰宅がほとんどだった。行きのバス停に向かうまででも滑る路面に歩行がおぼつかず、radikoのタイムフリーの隙間で次の番組を再生する際も一度立ち止まることが多かった。

実際のところ、私がスマホを操作する際、歩く最中でも必ず立ち止まるようにしているが、歩きスマホの危険性を叫んでおきながら『歩行中の場合は立ち止まって操作してください』とのお願いは何もアナウンスしていない、というよりは弱すぎるように思う。それから考えるに、この国、というか国民性が『立ち止まる』ことを忘れたように感じることが多い。

1月1日という元日に能登地方を襲った震度7の地震(被害に遭われた方には心からお見舞い申し上げます)から思ったのは、2024年以降に予想されることに対して立ち止まって考えよという神様仏様の警告が聞こえてくるような気がする。それがどのへんの事象かというと、

1.日銀によるマイナス金利の解除
2.東京電力柏崎刈羽原発の安全基準審査の合格を受けた再稼働議論
3.NTTの民営化議論
4.国内民放ラジオ局のAM停波とFM移管の推進

・・・考えてもキリがなくなるだけなので直感として思ったこの4項目にとどめておこう。

これらの項目というのは、阪神淡路大震災や東日本大震災規模の大災害の発生は想定してないのではないかと勘繰ってしまう。先に行われた国会での減税議論での給付金方式の条件といわれる『国難』がこういうことなのを何も当事者達はわかっていないのではないか(国会では自民公明の連立政権自体を国難呼ばわりする向きも野党内だがあるらしい)。

凍結路面での生活からこの国の国難へと話のレベルがかなり飛越してしまったが、要するに、
「物事はいつだって一度立ち止まって考える必要もある」
ということをこの国の国民性から何か奪ったような気がしている。同じ国難でも、新型コロナウイルス対策の猪突猛進ぶりに対する懐疑論が完封されたのはその典型例だと思っている。『大事な人を守る』ことを許さない人たちだっているはずだし、私もそうだったが『コロナ対策に従うくらいなら明日を生きていたくない』と思っている人に何の手立てもしなかったということは、この国を全体主義に持ち込みたい勢力の究極の思うつぼではないのではと思っている。私も事実、そのような反証を唱える人たちに寄り添うこともしていた。

『立ち止まって考える』・・・これこそがこの国の再生のためには必要事項なのではないかと私は考える。思考停止とは全く違い、反証する見解にも耳を傾けることが判断の正確さにつながるのではないのだろうか。

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