人間はいずれ
お仏壇の掃除や、法事、展示祭なのでお寺に行ったとき、
ふとした時に見る光景。
一枚の板というと語弊があるが、名前と亡くなった日時など、戒名が書かれた板がずらっと並んでいる。
いくつもあるお札の前列に、49日前の方が置かれており、読むと最近お亡くなりになられたのだとわかる。
人は生きているときは、顔のあの部分がとか体のあの部分がどうのこうのとか足が長い短いとかお腹がどうのこうの...まあ色々言いますよね。
でも、亡くなるとどうなるのか。
生かされているとはよく言いますが、本当にそうなのですよね。
自分で寿命のコントロールって、日頃の生活週間だったりしますが、その運命を変えることって自力ではなかなかできませんよね。
人間、いずれ一枚のふだ(戒名)になるのだな。
そう考えると、どんなことも恥ずかしいとかやらないとか、そういう気持ちになることって少なくなる。そんなふうに感じたのです。
だからといって、なんでもやって良いということではないのですがね。
もうひとつ、なんだか不思議で仕方ないのですよ。
それは、お葬儀の際、斎場にて形のあった肉体から骨になる。
その骨になるまでの間、時間短縮とか色々な理由でそのような流れになったのかもしれませんが、その数時間の間、お食事の時間となる。
悲しいとか不謹慎とかそういうことでなく、なんというか
にんげんって悲しんだり笑ったり、そんな時でもするんだな。
いや、そんな時だからこそ賑やかに過ごすのかな。。。
それも、長生きした方の場合は、とても温かい気持ちや雰囲気でみなさま送り出される。なんだか悲しいのだけど、とっても心地よい空間だった。
これは、わたしの祖父のお話。葬儀に孫がまごまごしている。
鳴き声や笑い声。終始さわさわしている。
「こういうのがいいのよ。こうやって子どもが泣いたりしながらも、お葬儀にいるっていうのが。」
これは長生きしたということなのかもしれない。
これがお子様や若者のお葬儀となると、ぐっと空気は変わるのだろう。
わたしはまだ、葬儀に参列したことがないために、きっと言えることです。お気を悪くする方もいるかもしれません。
不謹慎かもしれません。
ただ、人は生きているということと「死」を切り離して考えていることが自分含めて多分にあると思うためです。
死生観を常に持つということではないのです。
なんとなくでいいから、(あ...) と感じるということ。
そこを忘れないようにしたいと思うのです。
そのためにもではないですが、いまを、今日を、目の前をどう生きるかということがとても大きいように感じております。
あなたは、どう思われますか?
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