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長渕剛と俺物語


1.敗戦の辞


 このたびは最終選考にまでは残ったものの、力及ばず敗北を喫した「邦キチ-1グランプリ」でございますが、長渕剛のウォータームーンという存在を少しでも広められたのであれば俺は満足でございます。またこのような企画があれば突拍子もないもんを引っ張ってきてみようと思います、俺は興味本位だけで突拍子もないもん結構見てるからね。

 以上、終わり。
 ここから先は「この機会を逃すと喋れないな」と思ったので書き記す文章なので邦キチ-1グランプリとは全く関係ありません。

 尚、以下の文章は取材・文献・証拠などの裏付けは一切ないと思って頂いて構わない。俺の身勝手な長渕剛幻想(ファンタジー)だけが書き連ねられている代物であることは前置きしておく。

2.ウォータームーンについて

 紹介時(というかプレゼンなのだが)にはなるべくナチュラルに異常性を感じ取って貰いたかったので生のままお出ししたが、正直、俺はこの作品に対しては無数に言いたいことがある。

 詳しいあらすじはあのざまということで、なんでそのざまになったんだ? という話でもある。
 根本的な話から始めると長渕剛が宇宙人である設定はまるっきりいらないしむしろ脚本の足を盛大に引っ張っている。これは俺の想像だが、多分、デビッド・ボウイを意識した。長渕が一人で。

 この作品に限らないが「長渕が一人で」はだいたいの問題を解決するパワーワードだ。どうせこいつが言ったんだろう、ということで片が付く。そのぐらい意味不明なことになっている作品が多い。だが長渕剛一人に咎があるだろうか、周囲が止めるべきだったんじゃないか? などの問題もあるが、長渕剛は当時も今も自分のテンションで敵陣を突破する能力が異常に強いので周囲も止められなかったのだと思われる。

 さてウォータームーンの竜雲が「宇宙人ではない」としてみよう。
 無難なのは、元犯罪者である。はっきりヤクザで良い。
 なにかをしでかして出所した者が、行く当てもなくまた犯罪に走るのを防ぐために、あの寺の老師は寺をそういった人たちのために門戸を開いている。なので必然、寺の中にいる連中も荒くれ者が多いこととなる。実際、懲役から出所した場合、監察期間クリアや、今なら元ヤクザの肩書きを外すための期間、何年か「寺で修行する」というやり方もあり、履歴書にも寺で修行してましたと書いて良いとされている。知らんが。そういう話どっかで読んだ。
 そうすると、なんであの寺が荒くれ者の集まりなのかは理解出来る。
 その設定で、序盤に置いて最もクリアになる点は「なんでお前は寺にいるの?」に対するアンサーだが、俺としては「荒くれ者を成敗する長渕剛がやけにテクニカルなケンカをする」点にある。宇宙から落ちてきた男・長渕剛は幼少時から寺にいるわけで、そんなケンカどこで覚えたの、この寺はなに? 少林寺? というぐらい「何かやってるヤツ」感が強い。
 元ヤクザです、なら一撃で片が付く。違和感はない。
 竜雲を執拗に追い続けるスペース長渕捜索隊だって、普通の警察機関で良い。長渕剛は言わないが何か重大な事件の証言を持っていると睨んでいる、という設定で無難に通る。
 もう寺を出ろ、と言われるのにももうちょっと筋が通る。もう世間でやっていける筈だぐらいのことを言えば良い。一殺多生とか言わなくて良い。
 偉い老師にドチャクソでけー声で反論してから「すみません」とかふて腐れて言う仕草にも元ヤクザということで仕方ないか感が出る。偉い老師にそんな謝り方あるか。
 のちの松坂慶子との訳分からんやりとりも、「長渕剛だけが知っている事件の真相」に絡めれば随分とこちらも楽になる。

 もっと簡単に言うと
「宇宙人設定で何か作品に寄与した部分ある?」
ない
 という会話になる。一言で終わる。本当に何もない。ただただ脚本や設定、筋道をこれでもかとズタズタにしていくだけの設定だが、なんでそんなもんが採用されたのかと言えば、多分デビッド・ボウイみたいなものを意識していただけかと思われる。長渕が一人で
 お前はデビッド・ボウイではない。
 ヤクザ役はもうやりたくなかったのかも知れないが、お前は僧侶でもなければ宇宙人でもないしそれらの設定が全ての元凶になっている。もうヤクザ役はイヤだったのかも知れんがだからといってデビッド・ボウイにはなれないということを誰か言い聞かせることは出来なかったのだろうか。

 何が「一殺多生」だ。何人か殺してるから一殺ではないし、多分だが自己犠牲のような意味合いで解釈している気がするが、一罰百戒とかそういう意味であると俺は思う。
 どのような意味であれ、一殺多生という言葉を物語上のキーワードとしたいのならば、竜雲は死ななければならない。その上で松坂慶子を救わなければならない。まあそれだと一殺一生なのだが、帳尻は合うだろう(たくさんの人を殺そうとしている巨悪を一人殺すとかが本当は正しいのだが、それだと本当に違う話になってしまう)
 だが竜雲は死なない。
 死ななくてもいいが、例えば片目だけ松坂慶子にあげて、ラストシーンでは隻眼で現れるとか、今、五秒で考えてみたが、あんな訳分からんラストシーンより収まっていると思わないかね。
 あれだけ絶叫してた「一殺多生」って結局、何の意味も作中で持たなかったというのは驚愕に値する。
 ついでに言うとウォータームーンというタイトルはどうも「人生とは水に映った月のようなもの」という老師の言葉から来ているのだが、それだって別に物語上、何らかの意味がある訳ではない。何なら長渕剛は「竜雲」じゃなくて「水月」って名前だった方がマシだったくらいだ。

 よく「監督が降りた」「スタッフ全員ぶん投げた」「長渕剛の独裁政権下」などの話は聞く。それはそれで分からなくはないが、厳しいことを言えばその場合、全ての人間がスタッフロールから自分の名前を消さなければならないと俺は思う。そこまでストイックになるほどのものか、これ? と言われればそれはそうだが、世にこんなものを送り出した以上、そんな楽屋裏の話は少なくとも俺にとっては必要ない。
 監督・脚本・カメラマン・総指揮・主演・主題歌「長渕剛」くらい書いてあれば「なんでそうなったかって言うとね」という切り口で受け入れられるが、それをしないのであれば拾ってきたワンちゃんが言うこと聞かないからまた捨てるみたいな真似をしないで欲しい。
 厳しいことを言うが、社会人としての責任を自覚して欲しい。
 相手がほんとに宇宙人だったら仕方ないのだが彼は九州から上京してきた日本人でしかないので責任を持って引き取って欲しい。

 実際の話、俺はウォータームーンは酷い映画ということは知っていたし、ちゃんと見ていた上で本当に酷いと思っていたが、今回、応募にあたって詳細を確認すべくDVDと外付けプレーヤーを買ってまで挑み、そして大人になった脳みそで受け止めてみたのだが、本当に酷い
 これは俺の見識が浅いからかもしれないが、俺は今までウォータームーンが酷いという評を見たことがあっても「具体的にどう酷いのか」までは目にしたことがない。
 ここまで一から十までウォータームーンに真剣に向き合った人間はひょっとして人類史上、俺が最初なんじゃないかというぐらいの気分だ。
 よく言われる「邦画クソ映画」の中でも別格だと思う。
 例を挙げれば「実写版デビルマン」が分かりやすいだろうか。あれも酷いが、あれは酷さをある程度、自覚して創作されている。他にクソ映画、クソ邦画と言われるものは数多あるが、だいたいの場合「ここで遊びました」というのが伝わりやすくなっている。つまりおふざけでやりました、という突っ込みやすさという余地があり、そのおふざけが面白いかつまらないかという話になるのだが、ウォータームーンは違う。ここでボブサップが出ますよ面白いよね? みたいな歩み寄りが一切ない。長渕剛は本気である。本気であるからいたたまれなくなる。
 よって皆、詳細を語ることはしなかったのかもしれない。
 余りの悲劇は口伝ですら伝えられないことが往々にしてある。
 映画史、邦画史の中で生まれた「意図的に忘れられた存在」「後世に残してはならない存在」それがウォータームーンである。別に俳優でもない長渕剛(シンガーソングライター)が本気で俳優であろうとし、映像作品に取り組む映画人であろうとした結果、こんな悲劇が生じてしまったのだ。
 長渕剛はある種、とても生真面目な人間なのだと俺は思う。
 生真面目なだけに厳しいジャッジをするのを周囲が躊躇う、そういうことは誰しもあるだろう。明後日の方向に見当違いのことを喚いているのはなんかムカつくが、生真面目さからそういうこと言ってんだろうなと思うと、人はやはり手加減をしてしまう。それが連鎖した末に生まれたのがウォータームーンであると俺は思う。
 これは悲劇であり、そして喜劇である。
 彼は俳優でもなければ映画人でもないのだから。
 ついでに言うが、生真面目な人が善人とは限らない。 

3.長渕キック

 長渕キックという概念がある。
 独特の踏み降ろし気味の前蹴りっぽい動きである。蹴りつけたあとにくるくる回りながらヨタヨタするという、素人が蹴りを放つとこうなる、というリアリティが備わった動きである。この動きは長渕キックと称される通り、他作品・別俳優のアクションでは目にすることはあまりない。というか、ない
 俺なりにその長渕キックを分析してみようと思う。

 アクションシーンは演技である。当てないのが当たり前である。当てている動きをしつつ当てていない、というのがアクション俳優の俳優たるゆえんである。たまに当ててる場合もあるが。

 これは実際に試してみれば分かるが、なんでもいいから何かを適当に蹴ってみて欲しい。なるべく全力で蹴ってみて欲しい。当てた場合、反動が来ることによって体は安定を保てる。
 当てなかった場合、蹴った力が明後日の方向に向かい制御するのに体幹の力を必要とする。
 なので演技としてはある程度、手加減、寸止めをすることとなる。
 寸止めなら「ここで止める」という目標地点が設定されるので、体の制御が比較的容易くなる。

 格闘技モノの作品に、本当の格闘家を起用することもままある。だがだいたいはなんかちょっと迫力が足りなくなる(俺は実写版餓狼伝の話などしていないので気をつけて欲しい)。理由は恐らくだが、格闘家は当てるために打撃を繰り出すわけで「演技なので当たったように見えるようにしてください」というオーダーに戸惑うからだと思う。
 その点「格闘家に俳優としてのアクションを求める」は割と絵ヅラを成り立たせるのに難易度が高く「俳優として格闘技を修める」は前提として演技があるので本職よりもキレイに決まるシーンが多い。
 プロレスラーなどは見せ方を分かっている部分が多いのか、アクションがキレイに収まってたりしており映像作品に起用するのに向いているのだろうなと思ったりする。

 長渕剛は当てていないと思う。だが当てないなりの手加減は出来ない。それは彼が俳優ではなくシンガーソングライターであり、とにかく思い切りやるが当てない故にスカるので、その慣性を制御出来るほど体幹が鍛えられておらず、スカった蹴りに振り回された結果「長渕キック」という独特の動きが発生する。

 プロレスラーが俳優としても成功する理由の一つに、その手の「演技」そして自分の与えられた役割を演じているのに馴れている、などがあると思う。少なくとも空手や柔道の黒帯よりも演技に対する柔軟性、対応力はあると思う。

 だがそれ故に、長渕キックにはリアリティが発生する。格闘技なんかカケラも習っていないのに容赦なく蹴りを放つ、放った結果ヨロヨロになる、これは「キレたヤクザ」としての動きとしてはかなりハマっている。なので彼はヤクザの役が最も適しているのだが、「演技の幅を広げたい」とでも思ったのかヤクザ設定を避けていた空気があり、だが幾ら頑張っても彼はどう見てもヤクザがはまり役であり、それでいいと思うが思わなかったのだろう。
 自分が本来、どんな仕事をするべきなのかを思い出して欲しかった。
 俺が長渕剛は生真面目な人、と思う部分はここにもある。
 ついでに言うが、生真面目な人が頭がいいとは限らない。

 その長渕キックがウォータームーンにはない。
 かなり巧みなアクションシーンとなっている。テキパキとシステム化されたちゃんとしたケンカになっている。多分ようやくアクション指導が入ったのだと思う。これは長渕作品全てを通しても最もちゃんとしていたと言っても過言ではない。雑でよく分からんキックもそれなりに魅力的だが、冷静に考えるとちゃんとやれよという指導が入るのも致し方ない。
 だが設定上は寺で育った宇宙人である。システマチックなケンカをすることにどうにも違和感がある。
 むしろこの作品でこそ長渕キックが映えたのではないかと思うと皮肉なものも感じられる。 

4.長渕剛と空手道

 いよいよここから話はウォータームーンから逸れていく
 長渕剛はある日突然、空手を習い始めた。
 有名な逸話に「志穂美悦子と夫婦げんかになった時に上段後ろ回し蹴りで一撃で意識を飛ばされ、パニックになった志穂美悦子が千葉真一に電話したら「よくやった」とコメントされた」というものがあるのだが(個人的には真実はそんなに面白くないモノだと思う。オールスターキャスト過ぎて面白すぎるから)ともあれそれがトラウマになって空手を始めたのだというのが一般に流布している説である。
 そもそも嫁に蹴り飛ばされてから空手を習い始めるというのも、うっかり突っ込めない生真面目さが溢れている。しかし個人的には、長渕剛が大麻取締法違反で逮捕されてから何故か一念発起して空手を始めた、が正解のような気がする。その方が長渕っぽいから。空手を始めることに何の意味があるんだ? という因果関係のなさがとてもそれっぽい。ちなみにこの大麻事件が1995年である。故にここから始めた、と仮定してみよう。

 長渕剛主演の「ボディガード」というドラマがある。

 全体的に、長渕作品を通しても茶番感が異常であり、当時の長渕剛はドラマ・映像、ともに需要が落ち目だったこともあるが、それをさっ引いても相当、際だって雑である。
 長渕剛は「空手の達人」という設定の「フリーで仕事を請け負うボディガード」という、もうなんなんだかさっぱり分からない話である。
 この作品が1997年である。
 大麻で逮捕されたのが1995年である。
 ついでに言うとケビン・コスナーの「ボディガード」は1992年である。
 俺が何を言いたいのかは察して欲しい。
 ちなみに配信では見られない。DVDボックスだけが存在するが、そんなものに金を払うぐらいなら高いけど美味しいご飯でも食べた方が幾らかマシだと思われる。
 俺はおぼろげな記憶と、長渕星からの長渕電波を受信しこれを書いている。重ねて言うがDVDボックスを中古で買う以外の視聴方法はない。絶対にない。

 長渕剛演じるところのボディガード円城寺は、アメリカ大統領のホームパーティみたいなところに何故か警備員として配置されているのだが、周囲のSPに先んじて殺し屋の存在に気づき、一人で制圧したことから名を上げる存在となる。
 アメリカ大統領が? ホームパーティ? 日本で?
 俺だってこんなバカみたいなことは書きたくない。
 知恵が下がる。
 本当は国家間で何かイベントがあって訪日したのかもしれないが、何せパーティ会場がショボいのでホームパーティにしか見えない。そんなところに「フリーのボディガード」なんて配置していいのかとか色々考えてしまうが考えたら負けと思って間違いない。

 会場に潜入していた殺し屋は(潜入を許している時点でどうかと思うが)いきなり通りすがりのウェイターを銃で撃ち殺し、その制服を奪い大統領に接近する。
 
会場にいるどんなSPよりも洞察力に優れた長渕剛は、それがウェイターではなく殺し屋であることを素早く察知する。誰も気づいていなかったことだが、突然撃ち殺して現地調達したものだから、制服の袖丈と裾丈が合っていなかったからだ。そこは血痕とかで良くないか? えらい派手に脳天撃たれていたのだが、ウェイター。というかその時点で制服は使い物にならないとも思うが。
 
ギリギリで察知し銃を奪い一人で制圧する長渕剛。
 制圧したあと何故か右手を離す長渕剛。
 おもくそ溜めた右の正拳を「セイヤアッ!」という気合と共に殺し屋に撃ち込むという無駄極まりない動きとともにオープニング(主題歌は「向日葵」)に突入する。
 ところで長渕剛はこの頃から既に書道にハマっていたらしく、オープニングで「向日葵」と墨書しているが、その自分で書いたものを額縁に入れて家に飾っている。

 空手の達人とは言うが、大統領警備のSPなんて大概、空手の段位ぐらい持っているのではないかとか、そんな得体の知れないフリーのボディガードがいるのみならず、制圧時に誰も応援に来ないとか、そんなことが全てどうでもよくなる長渕剛独裁政権の始まりである。
 俺の勘では長渕が空手を始めたのは大麻事件以降である。とするなら、最長で始めてから二年目である。別にそんなことは取り立てて言うほどのことではないが(そういう役なので)さすがにちゃんと習っている人間がいきなり空手の達人という設定を持ち出されたら(多分だが長渕剛の方から持ち出したんだと思うが)少しは遠慮するのではないだろうか。

 その後も作中通して長渕剛の「俺は空手やってます」アピールは延々続く。オープニングでは一から十まで長渕の演武が続く。「設定上は空手の達人」というよりも「俺は空手やってます強いです」というけなげなメッセージが訴えられ続ける。
 余談だが長渕剛は体が柔らかいので、足などはちゃんと上がるためそれなりの絵ヅラになっているのだが、何せ体格が貧相なので強そうに見えない。見えないのにずっと強いアピールをしている。

 これは昔聞いた格言なのだが「空手でもなんでも、帯が二回くらい色変わった時期が一番イキり始める」と教えられたことがある。どう考えてもこの頃の長渕剛はど真ん中である。
 長渕剛は作中で黒帯だが、それは設定なので責める気はない。
 だがランニングの時に、上はジャージなのに下は空手着で、黒帯がちゃんと見えるように巻かれているのは本当にどうかしている。だったら全身空手着でもいいのではないかという中途半端さが凄い。しかも横断歩道の上で割と本気の柔軟体操を始め、横断歩道の看板を突然素手で殴るなど、もう、見ている方が恥ずかしくなるほどのアピールぶりを示してくる。

 長渕星からの長渕電波の調子がよろしくないので、よく確認していないのだが、帯に三本くらい縦線が入っている。初段どころか、三段か四段……? という恐怖がわき上がってくる。これが別に長渕流空手だというなら八段でも九段でも最高師範でもなんでもいいのだが、胴着の左胸には思いっきり極真会館の刺繍がある
 確かに四段まで行けば達人と言ってもギリギリ許される。
 俺は極真空手については詳しくないのでその辺どうなのかは分からないが、極真空手的にそれは大丈夫なのか? という不安が襲ってくるが、俺は極真空手については詳しくないのでいいのかも知れない。
 そういう役だから、そういう役だから。

 長渕作品に必ず起用される舎弟役だが、今回は寄りによって大仁田厚である。大仁田厚が実際に強い弱いは置いておいて、最早ビジュアルの説得力が舎弟でヘコヘコして長渕剛にあしらわれるという役として皆無に等しい。何せ体格が違う。一応「こいつは怪力だけどバカだから俺が教えてやっている」と認めるような発言はあるが、大仁田厚が途中で雑談のようにして子供に語る「粉砕骨折って知ってるか? 俺はそれをやっちまったから正座が出来ないんだ」とかは黒帯をアピールしながらランニングをしているよりも遙かに修羅場をくぐってきた強者感が出てしまっている。

 そういう役だから、で全てを片付けてしまったとしよう。
 格闘技経験などなくても空手の達人を演じろと言われたら演じるのが俳優の仕事である。
 では長渕剛はきちんと極真空手有段者、達人を演じられているのか?
 演じられてない。
 というか説得力が皆無。
 これは脚本も悪いと思うのだが、チンピラに取り囲まれた長渕剛は多勢に無勢という不利な状況下において、逃げ回って相手を振り回すことによって各個撃破を狙うという展開がある。
 だが殴ろうと蹴ろうとチンピラは再び起き上がってきていつまでたっても数が減らない。一人か二人は完全撃破しておかないと極真空手的に大丈夫なのかと思うが俺は極真空手に詳しくないのでなんとも言えないが、少なくとも空手の達人がやる殺陣ではないと思う。
 挙げ句の果てには鉄パイプを使用されたとは言え袋だたきに遭いノックダウンした上にエヴァのリリスみたいな姿になり果ててしまう。

クソほど笑った

 ここに登場するのが大仁田厚と、長渕剛と仲良くしている剣道の達人と思しき長渕剛の先輩格の老人である。老人の方はともかくとして大仁田厚である。打投極全てに優れたプロレスラーである大仁田厚は二、三人のチンピラを建物外に吹っ飛ばすなど無双の活躍を見せ、どう考えても長渕剛より強い。
 
彼ら二人が止まったのはチンピラに押し包まれて勝てなかったからではなく、リリスみたいになった長渕剛を人質に取られたからである。

 長渕剛が実際のところ、空手の腕前がどれほどなのかはブラックボックスの中である。サンドバッグを滅多打ちにしているところなどはそれなりにコンビネーションも整っているが、俺は長渕剛が組み手をしている映像を一度も見たことがない。

 ネットで時々話題になる「芸能人ケンカ番付」という、ファンタジーを楽しむ代物があるが、俺は長渕剛が番付に入っているのを一度も見たことがない。

 だが考えて欲しい。俺の仮定と推測通り「空手を始めたのは1995年」としたとしても、2023年の現在に置いてもまだ続けている。28年のキャリアがあるとしたらそれはもう達人である。一万時間の法則というものがあり、どんなことでも一万時間を費やしたら達人になれるという。
 一万時間は一日三時間として10年だという。
 長渕剛はトレーニングが大好きであり、これはあくまで風聞だがバックバンドのメンバーを揃えたとき、最初に行うのは音合わせでもリハーサルでもなく「チーム長渕」と書かれたジャージを渡し全員で走り込みから始めるのだという。そのぐらい彼は体力作りが好きなのである。他人に強制するのはどうかと思うが。
 一日三時間くらいは平気でやると思う。
 故に彼は28年のキャリアを持つ空手家である。
 これを否定するのは長渕剛に対する侮辱のみならず、極真会館に対しても失礼極まりない話ではないだろうか。俺にはとてもそんなことは出来ない。極真会館的には些か後悔しているかもしれないが、だったらボディガードの時点で「ウチの名前は勘弁してください」ぐらい言っておけば良かったのであり、言わなかったのだから仕方ないのだ。
 何度も言うが長渕剛はきっと生真面目な人である。
 だが生真面目な人が全員、自分を分かっている訳ではないとだけは言っておきたいと思う。

 これはついでだが、新極真の緑健児代表と長渕剛の対談という企画があった。以下にリンクを貼る。

 この中で長渕剛は率直に「“空手バカ一代”を読んで強くなりたいと思いながら、ずっと奥歯を食いしばっているような情けないガキだったんですよ」と素直な受け答えをする。
 するがその直後に「武器を持って待ち伏せして後ろから襲っていた」と繋げている。俺としては微笑みしか出てこない。この男はそういう見栄を張る部分がある。絶対にそんなことやっていないと思う。

 ちょっと見つからないのでリンクは貼れないが、緑健児代表は幼少期の思い出として「学校の悪者18人に呼び出された前日、18人全員を倒す方法を脳内でずっとシミュレートしていた」と生々しいことを語っており、長渕剛のコメントは「18人組み手ですよ」というなんだか意味のわかんないものであった。

5.長渕ミュージック

 「長渕剛はイジっていい」という風潮がいつから始まったのだろうか。
 俺も長渕剛の曲を全て網羅している訳ではない。
 だが察するにアルバム「HOLD YOUR LAST CHANCE」(1984)辺りからが怪しいと睨んでいる。Wikipedia調べだが

「文芸雑誌『別冊カドカワ 総力特集 長渕剛』では、「過去の歌唱法を真っ向から否定するボーカルが飛び出す。当時は、あの「順子」の、あの「乾杯」の長渕剛とすぐには結び付かなかったリスナーも多かったのではないか」と表記されている」

 となっており、音楽性が変わったことを示唆している。
 何故、俺がその年代に目を付けたかというと「コージ苑」というまんががあるのだが、その中の四コマに「友達に散々長渕剛をバカにされ(順子~とかナヨナヨした曲歌ってればいいものをよ~、など)それに話を合わせていたが、帰宅してから長渕剛のアルバムに土下座して「ゴメン、ツヨシ!」と泣きながら謝る」という作品がある。窓の外にちくわ女がいる。
 この連載が1985年から1988年までであり、この時期にはそういう風潮が成立していたと推測出来る。
 それまで精々「乾杯」くらいしか知らなかった俺にとって初めて邂逅した長渕剛イジリである。
 ツヨシ呼びなどもここで知った。
 俄然、そこから興味が湧いたと言ってもいい。
 実際にはそこからもいい曲は多いのだが徐々に「JEEP」辺りからおかしくなっていき(ジープ買いました、というだけの曲)「JAPAN」でいよいよ決定打となったように俺は体感している。
 長渕剛の自分語りは堰を切ったように止まらなくなり、そしてその自分語りが悉くと言ってよいほど「? はあ……」としか言いようがなく、逆にそれで心を打たれた人たちが少なからず存在するが故に長渕剛は日本のトップアーティストと呼べる存在となった。
 呼べるか?
 いや長渕剛をトップの一員に数えないのさすがにハードル高すぎない?
 でも海外での評価は全く聞いたことがないのだが。
 
 よく熱心なファンのことを「信者」と呼ぶが、自虐的に言ったり、ごっこ遊びで称したり、または外野からの揶揄として呼ばれたりするが、長渕剛のそれは本質的に宗教でありまさに信者と呼ぶに相応しい。
 だってほぼ内容がないし言っている意味も分からない。別に歌詞に意味や文脈など存在しなくてもいいとは思うが、最近は曲調まで似たような曲ばかりリリースしており、まるでマニ車を回しているようだ。
 故郷・鹿児島には長渕剛像などもある。像、というからロッキー像みたいなやつを想像していたらスケールが桁違いだった。

作品名「叫び」

 この信者感はよくネットでネタにされる「長渕が歌わないでファンがずっと歌っている」という現象からも伝わってくる。ご存じない方のために貼り付けておこう。

長渕「巡恋歌 セイッ!」
客「好きです好きです心から」
長渕「セイッ セイッ」
客「愛していますよと」
長渕「ハッ セイヤー」
客「甘い言葉の裏には」
長渕「オラッショ! セイッ!」
客「一人暮らしの寂しさがあった」
長渕「セイ!」(ジャカジャカジャカジャカ)ギターひく

 ただ、これはライブの模様、という伝聞と、長渕イジリの一環であって大袈裟に誇張されている部分があると思った方がいい。いくら何でも全部歌わせるというのはやりすぎだと思う。
 だいたい、サビの部分までは連れてきてくれる。
 上記の「巡恋歌」で言うと「だから私の恋はいつも、ハイッ!」というぐらいまでは連れてきてくれている。ただ俺も全てを網羅しているわけではないのでひょっとしたらやっていたかも知れないが、一応、長渕剛はリードした上でバトンを放り投げている。はず。

 それに「客に歌わせる」というのは別に珍しい演出ではなくよくあることだと思うが(単なるファンサービスだと思う)何せ長渕剛の歌詞はよく分からない。それを何万人も合唱している有様は他のアーティストよりも宗教観が恐ろしく高い。

 Spotifyでの存在は確認した代物だが、「人間」という曲のライブバージョンがあり、巡恋歌よりも宗教度が高い。「ただじゃ帰さないから」という宣言から始まるそれは「そうだ俺たちは人間だもの」という「知ってますが」としか返事のしようがない歌詞が影響してサバト感が強い

 俺はライブ版の巡恋歌よりも圧倒的にこっちが好きだ。
 巡恋歌のようなアップテンポさがないため、ファンが洗脳されて無意識に歌っているような、レミングの群れが崖に向かっているような、そんな感じがよく伝わってくる。ちなみになのだが、カラオケに「本人映像」と書いてある「人間」を発見したら歌わなくていいので再生して欲しい。モノクロ映像で長渕剛が知らない和尚となれなれしく絡み続け、自分のサングラスを和尚にかけさせたりと好き放題やっている。和尚がよく状況が分かっていないフシもあり気持ちがざわめいてくる。
 あとから気になって調べたら結構えらい高僧だそうなので本当に怖い。

6.長渕書道

 これについては俺はもうどう説明していいのか分からない。
 バカでかい筆のようなものをぶん回してよく分からない字をえんえん書き続ける書道パフォーマンスだが最近はやってるのをあまり聞かない。何かに気づいたのだろうか。長渕ではなく、他の人が

 YouTubeに映像がある。
 見て貰った方が早い。マジで何してるか分からない。途中でぶん回しすぎて筆先が外れてしまい、それでも今度はその筆先を叩き付けはじめ、何かわからんことをブツクサ言い続ける狂気のイベントである。

 俺が脚本版で書いた永遠渕が書道をしているのはこれの引用であるが、知らない人は本当に意味が分からなかったと思うし、知っていても今度はこの書道がそもそもなんなのか分からない。

 これについてはこの映像が全てである。
 お暇な方は本当に暇な時にでも見て欲しい。得るものは何もない。

7.終わりに

 本当にこれを最後まで読んでくれた人がいるのだろうかと思うが、一応、結ばせて貰う。
 出来る限り、思いつく限り長渕剛という存在を書き並べてみたが、まだまだ足りないことが数多くあるような気がする。
 俺もある意味、長渕剛の熱心なファンである。
 「Captain of the Ship」などもの凄いバカにされているが俺は好きである。俺はなんかヤケクソになって絶叫して言い捨てているような曲が好きなのでそういう意味で好きである。
 ウォータームーンの主題歌「しょっぱい三日月の夜」などもイントロはかなり盛り上がるモノがある。作中では映像が全く追いついていなかったのだが。ただ「これ前にも似たような曲造らなかった?」というのは結構目立つ。その中でもCaptain of the Shipは似たような曲はないと言える。ブレイクスルーである。破っちゃいけないものを突破した気もするが。
 実際の話、ライブ会場にいて「だから私の恋はいつも、ハァイ!」とか言われたらうっかり歌ってしまいそうなところもある。ただ「人間」だけは俺は入り込めないと思うが。あれだけは勘弁して欲しい。死ぬ準備をしている気分になる。

 俺は他人が長渕剛の悪口を言い始めたらバカスカ被せ(銃突きつけられて「安全装置!」ってだけ言うシーン凄く面白いよね! そんなこと堂々と言う? とか)そして帰ってきてからツヨシに謝ったりしないタイプのファンである。
 ツヨシも俺の謝罪など求めていないだろう。
 世にはそういう関わり方もある。
 そういう関わり方も許される世界であって欲しい。
 俺がちょっと口が悪すぎるだけで「邦キチ!映子さん」の趣旨とそんなに変わらないとも思っている。いや口が悪すぎるのはかなりダメだろという気がするが。プレゼンじゃないから。それただの悪口だから。

 これを以てして敗戦の辞を終わらせていただきたいと思います。
 もう一回開催されないだろうか。
 ドラマがオーケーなら「ボディガード」や「RUN」なども紹介していきたい。いきたいじゃねえよ、長渕剛に頼るのを止めろ。だが俺は長渕ドラマ、長渕映画を語り継ぐ語り部でありたい。神様に……なりてえなあ(遺言)

 お付き合いいただきありがとうございました。

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