二文字色々。「瀕死」編

例えば人の悩みを聞いたりする時に、僕はその人と死の距離感をイメージしながら話を聞いていたりする。
死ぬか死なないかというのはみなさんご存知ないでしょうが実は人間にとってわりと重大な問題で、なんと言っても死んでしまってはそれまでだ。僕も32年とか生きてはいるが、生まれてこのかた一度死んでしまった人と対話できたことがただの一度もない。悼むとか弔うとかいう行為は、その人を喪った私との対話にすぎず、一度死んでしまった人とは、もう、どうしたって、好きでも嫌いでも、一言だってもう口は利けないのだ。
だから、目の前の人が「瀕死」なのかそうでないのかは割と僕にとって重要な問題だったりはする。いつも「瀕死」の可能性にびくつきながら人の言葉に耳を傾けたいと思う。
僕はエネルギーみたいなものを割と当てにしていて、本人はしんどそうでもそういうのにむかついて息苦しいのが気にくわないぞみたいな外向きのエネルギーが出ていると、まあ「瀕死」ではないなと思って頑張れ頑張れと思ったりする。本人なりにはきっと深刻で死に隣接している心理状態なのかもなと思いつつ、そこから脱しようとするエネルギーがあるなら、きっとどうにかやるだろうみたいな。無責任だけど、そういうの勝手に感じたり浴びたりしている。
逆に、そういうエネルギーが感じられない時。逆に、そういう時は自分を追い込んで死以外の選択肢を排除しにかかろうとするみたいな、そういうエネルギーを感じたりもする。そういう時に僕は、これは僕が本当に未熟なんだろうなと思うんだけど、僕にそのエネルギーを向けてほしいと思う。それはつまり憎しみだ。憎しみとはつまり外向きだ。自分を殺すためにエネルギーを内向きに注いで、そうして死んでしまうくらいなら、俺を憎んで、俺を睨みつけることで少しでも死から目を逸らしてくれ、みたいな。そういうことを思ってそう行動したことが何度だってある。これは武勇伝でもなんでもなく、俺の恥ずかしい性分の話なんだろうなぁ。
「瀕死」の人には、「死ぬな」と言いたい。そう言って苛つかせたい。俺の楽観的な世界観を否定しろ。俺の楽観は筋金入りなので、本当に否定しようと思ったら数年数十年かかるぞ。そうやって生きてほしいと思う。
しかしそれは俺の勝手な願いで、本当に瀕死の人は、勝手に視界から消えていく。俺はそれが気に入らなくそれらのせいで不機嫌だ。だから僕は、これからも嫌いじゃない人が「瀕死」になった時にあーだこーだ言うぞ。それが弔いだとしても。悼みだとしても。俺は生きるし、生きたくはないのかって言うぞ。だってそれしかないもん。俺がいなくなったら俺はいないことになっちゃうなんて寂しいじゃんか。俺が生きているということで俺という存在は首の皮一枚つながっている。俺だって瀕死だよ。みんな瀕死でいいよなぁ。

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