過去の自分を愛する

ある人が、ある時に、「私は過去の自分を否定するような人間にはなりたくない」というようなことを言っていて、私はしじみ300個分の自己愛を持ったおめでたい人間なので「何を当たり前のことを言っているんだ」と一瞬思ったが、よくよく考えて周りの人間を眺めてみると過去の自分の性格や考え方を殊更に踏みつけて今の自分を肯定しようとする人は少なくないことに気付いた。

私は私のことをのべつ幕なしに否定してくれる人間の存在には生まれてこの方不足を感じたことがなく皆さんにも配って回りたいほどだったので、自分で自分を肯定するのは当たり前のことだと思っていた。中学の頃、体育の終わりにサッカーのゴールポストを移動させなくてはならなかったのだがいつも気付いた時にはもう十分すぎるほどの生徒がゴールポストに殺到していていまさら私が一人加わる必要もないなと思われたので私は特にそれに混ざろうとはしなかった。しかし、体育教師はそんな私を捕まえて「サボるな」と叱った。私が一人加わることでみんなの負担が軽くなるのなら私は喜んで引き受ける。しかし既にゴールポストには一人二人がそっと担ぐのをやめたとしても他の人は気づかないだろうというくらいに人が足りていた。むしろ更にそこに私が加われば窮屈で邪魔だろうとすら思われた。なので私は叱られたことが解せなかったが、それでもゴールポストを運ぶのに加わることが世の道理ということであれば、あるいは「もう否定する人は十分に足りているから」という理由で私自身を肯定する私は間違っているのかもしれない。

そんな私の肯定する私の対象は現在の私に留まらず過去の私にも及ぶ。過去の私は視点によっては今の私とは似ても似つかぬ私であるが、それでも私は私を肯定するし愛しているといって差し支えないだろう。もちろんいつだって私が正しかったとはとてもとても思えるはずもなく、なんて馬鹿なことをやってしまったんだと呆れるよりほかない私もあれば、あまりに他人を軽んじていて苛立ちを覚えずにはいられない私もある。自ら不幸になる決断を下し続けた私を哀れに思うこともあれば、然るべき感謝の念を持つことのできなかった私を殴りつけてやりたいとも思う。しかし、それらの感情が私が過去の私を否定したいという気持ちに結びつくことはない。愚かさに腹を立てることも馬鹿さ加減を嘆き憐れむのも愛していればこそだ。きっと一般的に親が子に対して持つであろうとされる感覚を、私は私自身に向けている。私の親が私にそのような感覚を向けているのか、はたして私は知らない。

そんな私なので過去の自分を否定して今の自分を肯定しようとする人というものが私にはもうひとつよく分からない。彼らは過去の自分を嗤い蔑み、そのうえで「しかし今の自分は違う」と鼻息を荒くする。そうして彼らが強調する過去と今の「違い」というのは大抵の場合表面的で些細な変化であり、本質的な性分はほとんど変わっていないように思われることがしばしばだ。にも関わらず本人は「あの時の自分と今の自分は何もかもが違うのだ」と息巻く。こちらからすれば今も昔もどうせほとんど同じようなものなのだからどちらか一方を肯定するなどとケチ臭いことは止して両方肯定してやればよかろうと思うのだが、どうもそうは問屋がおろさないらしい。

ところで私がゴールポストを運ばずに体育教師に怒られている一方で、ゴールポストが運ばれているのを見かけるといつも全速力で駆けつけようとする今田くんというクラスメイトがいた。どれだけ人が足りていようと、ゴールポストに辿り着く頃にはゴールポストが然るべき位置に移動完了しているのではないかと思われるほど距離が離れていようと、今田くんはいつも全速力で走っていた。そこで私はある時、今田くんに「十分に人が足りているのにゴールポストを無理に担ごうとする必要はないのではないか」という持論を展開した。すると今田くんはそれからゴールポストを担ぎに行くのを一切やめた。そして「十分に人が足りているのにゴールポストを担ごうとする奴は要領の悪い馬鹿だ」と言うようになった。それから私は、今田くんが何を好きだと言っていても何を嫌いだと言っていても、ゴールポストに向かって全速力で駆ける今田くんの姿ばかりを思い出すようになった。

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