音韻論入門 III

音韻論入門 I に引き続き、音韻論入門 II では隣の音に影響されて別の音になる、というのを見てきました。s の音が i の前では sh になるんでしたね。

si の前では sh になる。

「し」は "si" なんだけど "shi" と発音される。という話です。外来語でない日本語には「スィ」という音は無いですよね。"si" は "shi" になってしまうのです。

で、kas + itai が  kashitai と発音されるんでした。これを形式的に表現する方法があります。単に表記法を紹介したいだけです。

/kas + itai/ ->  [kashitai]

と書きます。/ / というのは実際の発音ではなくて、単語等の組み合わせです。それって何?心のなかにあるの?心理的な?脳の?の話はとりあえず置いておきましょう。音韻論 II で五段活用を見ましたね。

「ほろす」って言葉知ってますか?ちょっと大きめの容器に少しだけ水や飲み物を入れることです。「これコップほろさないで!」とかいいます。じゃあ、そのコップにちょっとだけ水を入れてほしい時は「これコップほろして!」ですね。horoshite です。

「ほろす」という言葉は今私が作りました。しかしそれでも五段活用が出来ます。それなのに

/horos + itai/ ->  [horoshitai]

/s/ は /i/ の前に来ると[sh] になるという事のようです。これは単に貸す、ほろすの問題でも、さしすせその問題でもなく、常にそうなっているようです。カタカナ語とかでなければ。

サシスセソが本当に /sasisuseso/ を[sashisuseso] と発音しているだけなのかは今のところ状況証拠しかありませんが、si の前では sh になるのだとすれば説明つきます。

 /si/ -> [shi]

と一般化しておけば、「シ」が「スィ」とならない、「ほろすぃて」にならない問題は説明できますね。「正しい」かどうかじゃなくて、これで説明がつく、一般化できるかの問題です。

中の人は /si/ でも、実際には [si] と発音される、この変化というか処理が毎回行われてるのか、siって言おうとすると勝手にshiになるのかとか、サシスセソが固定されているのでどうしてもそうなる、などなど /si/ -> [shi] が起こる原理を知るにはいろんな事を調べないと分からなそうなので、この音韻論入門ではやりません。ここで注目しているのは音の変化であって、何がこの変化を起こさせているか、ではないのです。いっぽうで何が変化させているのかというのはとてもおもしろい問題なので、また音韻論入門以外の別の入門でやりましょうね。

 / / で表記される「中の人」の事を音素と呼びます。単なる用語です。[ ] で表されるやつは音声と呼ばれたりするのですが、この音韻論入門では音声に対して厳密になることを避けてユルくやってますので、本気で「音声」と思わず、[ ] は「中の人がこういう声を出す」くらいに理解しといてください。音素と音声、厳密に考えるとめんどくさくなるので、なるべくユルく考えていきたいと思います。

さて、この「中の人」という概念はちょっとおもしろいです。音の変化を一般化しようと思わなければ別にどうでもいいのですが、一般化しようとすると、どうしても必要になってきたりします。実際には発音されないような形態の「中の人」を仮定することによっていろんな音の変化が一気に一般化出来てしまうような言語もあったりします。

音韻論入門 I で、「しんぶん」の「ん」について考えましたね。そしてついでに 英語での impossible と incredible の im と in を比べたのは憶えてますか?どうやら、P とか B とかMの前の N は M になるようです。日本語でも英語でもです。

「しんぶん」の例で分かるように、Mと発音されていても、「中の人」は「ん」ですね。

NB -> MB
NM -> MM
NP -> MP

という変化が起こっているということですね。

ところで、P とか B とかM は両唇を使う「両唇音」と呼ばれています。どれも両唇音ですね。つまり、「両唇音の前ではNはMになる」という事のようです。

N+両唇音 -> M+両唇音

と表記しておけばいいですかね。これ、別の記法があって、

N -> M / __両唇音

と記すことも可能です。/ の後ろの部分がどのような条件で、というのを示しています。音素を示す時の / / とは無関係で、/ の右側に条件が書いてあります。(とは言え / の右側にあるのは音素かと言うと、音素の場合がほとんどかもしれませんが、そうじゃないこともあります。)

さて、この音の変化の表記、「し」の例だと、

 si -> shi
 s -> sh / __ i

はどちらも同じことを指しています。ちなみに前者は Kuroda Normal Form って呼ばれる標準形ですが、音韻論では後者の記法が好まれるようです。どっちにしろ等価なので関係ありません。ただ、後者のほうが条件だけ分離してるので、「条件を比較する」みたいな作業がやりやすいという長所があるかと思います。

ちょっとわかりにくいので、
NB -> MB
NM -> MM
NP -> MP
をこの記法で書き換えてみましょう。

N -> M / __ B
N -> M / __ M
N -> M / __ P

こうしてみると、BとMとPの前、つまり両唇音の前!ってわかりやすいような気がします。「BとMとPの前」というところから「両唇音の前」と、まとめてしまうのを一般化と言います。

音の変化に関して、まとめると何がいいか、の価値そのものに関してはこの音韻論入門の本題そのものでありますし、ここで一言では説明できないのですが、例えば図形だと三平方の定理とか、全ての直角三角形に当てはまるわけで、究極の一般化ですね。「まとめ」と言うよりも定理として証明できるレベルなわけで、最強です。

両唇音の前でNがMになるのではなく、「両唇音以外の前でMがNになる」と一般化することも可能です。今のところ、どちらがよいか決定する根拠はここにはありません。

音の変化に関して公式として証明できるレベルの一般化はたぶん無いと思いますが、意外とこの変化の「一般性」は高いかもしれません。そもそも

N -> M / __両唇音

という変化も日本語と英語で起こるわけです。両唇音の前で発音されるNってたぶん日本語と英語には無いです。そして他の言語でも稀だったりするんじゃないかと思います。その理由について音声学的なウンチクを考えてみることは可能なので、未来のの音韻論入門 では簡単な音声学(調音音声学)について考えてみたいと思います。

今回見てみた「〜の前でXXに変わる」という事に関して2つの表記法

XY -> ZY
X -> Z / __Y

どちらの表記法でYの前でXはZに変わる、という同じことを表しているのですが、これは文脈依存文法と呼ばれ、これ自体については生成文法入門シリーズで紹介予定です。


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