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「劇場版PSYCHO-PASS providence」感想

めちゃくちゃネタバレを含みます


  • 良かった点

公開順が非常に良かったと思いました。
3期で出てきたキャラの深掘りをさらっとしつつ、ミッシングリンクをうまく埋める作品になっていた感触です。

  • 乗れなかった点

  • シビュラシステムへの解釈違い

今回の劇場版のテーマは、システムと人間の関係性ということに集約できそうです。
一軸に、法律をなくそうとするシビュラシステムとの戦い。もう一軸に、日本政府というシステムのコマとして絶望を味わいながらも、任務を無理矢理完遂する為の「ジェネラル」システムに依存するピースブレイカーという敵との戦い。
第2の敵との戦いを経て、第1の戦いに答えを出す、、というのが大きな物語の流れです。

第2の敵については、かなり捻った構造で個人的に好きなタイプでした。
ただ、第1の戦いについては、私の解釈では、シビュラシステムは法律という並列システムをなくそうなんてしないので、かなり気に入りませんでした。

まず、「法律をなくす」という言葉が嫌いで、話に乗れませんでした。一般に法律といえば、国際法、憲法、民法、刑法、行政法、条例など、種々のものが考えられます。そもそも、それぞれの設置法に則ってできている行政組織の人間が法律なんて要らねえ!なんてありえないところでしょう。
法律がなくなったら法務省がなくなるだけというのは、恐ろしく馬鹿げた話です。

また、シビュラシステムが法律を廃止したい人間を都合が良いと考えているように思われたのが非常に解釈違いでした。

これは2期以降のPSYCHO-PASSに共通するところですが、1期のシビュラシステム、局長というガワを通じて「民衆はシステムを末端からしか理解しえない」と言い放つシビュラシステムと矛盾しているように思うのです。

シビュラシステムは、自らのシステムの優秀性を誇りつつも、優秀性自体が自分の存在を肯定する根拠になるとは考えておらず、結果としての末端の人間の幸福や利便性という印象こそが自分を肯定する根拠になると考えている、そんな存在だったはずです。
合わせて、シビュラは、自分の姿が歪なことを自覚して自分の姿を外に出さない側面も持ちます。

そんなシステムが外界の隠れ蓑としての法体系を否定するわけないだろうと思う訳です。
即時量刑・即時執行はシビュラあってのものというのは、そもそも量刑という下敷きがないと成り立ないはずで、そこを取り払うことには、1期のシビュラの発言との不整合があり、困惑しきりだったというのが正直な感想です。

ここからは、シビュラシステムはもっと狡猾で、人に寄り添っていて、なんだか否定できない、嫌らしい必要悪な存在でいてくれよ!という私の願望も込みになります。

シビュラという名前については、槙島の発言で視聴者全員が知っている通り、「預言者、神託の巫女」という言葉の意味になります。

つまり、神のように「唯一絶対の完全な存在だから周りに崇められる」システムを指向しているのではなく、より大きくそして物言わぬ不完全な社会秩序の代弁者として力を振るうシステムを指向した存在であったはずです。

だから、そんな存在が既存のより大きく不格好な法体系を否定するのは、まるで神を否定し我こそ神であると宣言するという巫女のようで、私には違和感がありまきた。

例えば、安倍元総理は、第一次政権の時は小泉元総理というカリスマの次のリーダーとして苦しい評価を受けていたが、第二次政権の時には旧民主党政権の迷走に対しそれよりはマシという評価を受け続けていたように思います。
それと同じように、自分より評価の低い存在が横にいるということは、印象でしかシステムを評価できない末端の民衆と対峙する上で極めて好都合であるはずです。
劇中の通り法体系がシステムとして無能ならば、その無能こそが自分の印象を良くする材料であると気づいてすらいないシビュラシステムというのは信じられないという感じです。

  • 常守朱の選択への違和感

主人公である常守朱が、最終的になしたことが槙島聖護と同じ、社会に無視された子供が駄々を捏ねるようにテロを犯すということだったのは、センセーショナルであった以上に、私の好きな1期を否定するようで、正直嫌でした。

常守はクリアな色相を持つが免罪体質者ではない、ということに、私は深い意味があると思っていました。
つまり、免罪体質者は一種の欠落者であり、槇島のように、本を読み知ったかぶりしても本質的に正義とは何かわからず、人の正義を試すと言いながら全部ぶち壊す子供として捉えていました。(似た事を狡噛も言っていたと思います)
一方、常守は普通に色相が濁る事もある普通の人間で、つまり欠落者でなく、色相がクリアに戻る人間です。

今回の映画を観て客観性と神の話を聞きながらやっと言語化できたのですが、客観的に自分を観た視点としての社会規範の有無がこの違いなのではないかと思います。
自らを客観的に観て社会規範との相違を意識できないのが免罪体質者であり、「心の欲する所に従えども則を越えず」の状態にある理想的な市民が常守である、と描かれているのではないか、と考えた次第です。

そんな常守が、公衆の面前で人を殺すというのは明らかに社会規範を越える行いだったとしか思えませんでした。
例えば、これがカリオストロの城の銭形よろしく、「ナノタワーの下にこんな空間が!これは大変なものを見つけてしまった。どうしよう」という放送をするのは、ある種テロではあるものの、社会規範から外れない印象です。
しかし、公衆の面前で人を殺すのはやはりおかしく、必然性を全く感じられませんでした。
(シビュラを人扱いしていなかったとも解釈できる余地もあるかも知れませんので、かなり個人的な主観かも知れませんが…)

以上、感想でした。

追伸
providenceありがとう!
2期からもやもやしてた気に入らない部分が、自分の中で言語化できたぜ!

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