自分をコンテンツにするより、「場」をコンテンツにしたい

自分が自分らしく生きることでお金を得る生き方というのは色々あるけれど、突き詰めるとそれは「水商売」なのだと思う。
そういうのってなんだか生きていて良かったと思えそうだし、上手くいけば大金も稼げそうだから、いつの時代も普遍的に人気なんだと思うけど、私はどちらかというとそういうのには向かないタイプだ。

普段から、自己紹介をして、と言われても困ってしまうくらいには、自分自身について語りたいことが特にない。
頑張って捻り出せばそれなりに面白い感じにもなりそうだけど、なんか常にネタを提供するのって疲れてしまうと思うんだよね。
私は、朝起きて、お散歩をして、体に良いご飯を食べて、誰かと雑談をするような、そんな普通の生活が好き。
そんななんでもない日常の中で、私との関係を大切に思って欲しいなんてふてぶてしい考えを持っている。

私自身が常に面白おかしく生きていなくても、私の存在が生かされるような、そしてそこに集う様々な人の存在が生かされるような、そんな場所があれば良いのにな、と思う。
個性って普通にしゃべったりしているだけじゃ発揮されないのが普通で、お茶をするだけじゃ人は中々人を好きになれないし、深い思い入れなんかも育たない。
だから、私は「話すこと」それ自体がメインの交流となることは避けたい。
私自身も、そうした場所には疲れてしまってあまり足が向かなくなるし、何より、そうした場所は私が作らなくても、「バー」とか「飲み屋」とかいった形で、そこら中に溢れている。

普段は自分のための作業をする場所としながらも、時折そこにいる人達の良いところが自然と出るような、そんなイベントを仕掛けていく。
そしてその場所に長く出入りすることによって、そこに集う人たちの人生が交差していくような場所にできたら良いなと思う。
人に踏み込むことがリスクと思われがちな時代だからこそ、「気づいたら大切な人になっていた」となるような、そんな出来事がたくさん積み重ねられていくことが、今必要なんじゃないかなと思っている。

とはいえある種のキャッチーさもないとインターネットの海に溺れてしまいそうだから、とりあえず私自身について面白おかしくnoteにでもしてみようかなとは思うけど笑

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最近読んだ漫画で、「ゆりあ先生の赤い糸」というのがとても良かった。
ネタバレになってしまうかもだから、気をつけて読んでいただきたいのだけれど、

ざっくりと要点を掻い摘むと、50代のゆりあ先生の旦那さんがある日突然倒れて、それを機に旦那さんの不倫相手(男性と女性1人ずつ)やその子供達(?)の存在が発覚するのだけれど、訳あって旦那さんの介護をするためにみんなで共同生活wをしていくうちに、気づけばかけがえのない関係性が育っていたという話。

不妊治療の末に子供を授かれなかったゆりあ先生が、許せないと怒りながらも、関わっているうちに、夫の不倫相手の子供達の成長に支えられて生きている自分に気づいていくシーンは印象的だった。

人間関係の本質がたくさん詰まっている、とても繊細な漫画だと思った。

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仕事も恋愛も選択肢が多様になって、市場価値をあげなきゃとか、特別な人間にならないと必要とされないんじゃないかみたいに思わされてしまいがちだけれど、

まあそれは人生の真実の一側面ではあるのかもしれないけれど、

そうじゃない価値の見出し方、見出され方をしたいよねっていう。

「場」自体の品質をどう保つかとかは、なかなか難しい課題になりそうだけど・・・

さしあたり自分の感覚を信じてやってみるしかないんだろうなぁ。


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