地元の平家物語「千手姫」
この記事は投げ銭です。
私は歴史が大の苦手です!
間違った認識の部分がありましたら、優しいコメントをお願いします。
ー地元の平家物語・千手姫ー
とある町の古びた神社にまつわる話。
その神社は年に数回、ささやかですが子供神輿や節分などの行事が行われます。
無人の神社(神主が在住しない)ですが、月1のペースで寄り合いがあります。管理が行き届いているので神社好きの私としては大変嬉しいことです(^_^)
で、その神社の社務の裏に御堂と墓地があるのですが、墓地には案内板が立っていて、こう書かれています。
「重衡の首塚」
墓地を見渡すと、立ち並ぶ墓石はよく見受けられる形ばかりですが、一つだけ灯篭のような形の墓が密かにありました。
それが重衡の首塚です。
檀家さんや氏子さん達が植えたのでしょうか。首塚の周りには菖蒲の花が咲いています。
私は時代劇は大好きですが歴史は大の苦手です。でも、この手の話はいろんな説があって、定かではない事ぐらいは知っています。
最初は「ふ~ん、首塚ね」と関心はありませんでしたが、偶々、神社の総代とお話する機会があったので首塚の事を聞いてみました。
「重衡の首塚って看板に書いてあるけど、本当に首が埋葬されてるのですか?」
総代はニヤリと笑ってカバンから2枚の紙を取り出して私に見せました。
「そうだよ。」
そう言って渡された紙には「重衡と千手姫」と題されて、細かい字で文章が印刷されていました。
「あれ、いち、いち、えーと、一の谷の合戦!その合戦で高家(蛭河庄四郎高家)が重衡を捉えてな。木津川のほとりで重衡が処刑された後、高家が重衡の首を持ち帰ってここに埋葬したんじゃ」
「へぇ。高家という人はこの土地の出身ですか?」
「そうよ。知らんの?昔は学校で勉強したけどねぇ。」
私はあははと笑ってごまかしました。
もう一度言います。歴史は大の苦手です。全くわかりません。その他古典もさっぱりわかりません。
「これ、もらっていいですか?家でゆっくり読みたいので」
「ええよ、詳しいこと知りたかったら○○のじー様に聞きな。歴史の研究して本も出版してるから何でも知ってるよ。」
総代としばし世間話をして別れた私は家に帰って「重衡と千手姫」を読みました。
正直、細かい字がビッシリと並んでいて読んでいると頭が痛くなります。
何度も言いますが、私は歴史が苦手です。ちんぷんかんぷんです。
どうやら頂いた紙には平家物語「千手」のお話と、蛭河庄四郎高家のお話が書かれているようです。
千手とは物語に登場する女性の名前で、囚われの身となった重衡の世話役をした女性です。
ですが、頂いた紙に書かれている文章は全て「千手姫」と書かれているのです。たしか平家物語の原文訳では「千手前」または「千手の前」です。
歴史は苦手だけど、前と姫の違いが気になったので少し調べてみました。
〈平家物語の重衡と千手前の大雑把なお話〉
平清盛の五男・重衡は、一の谷の合戦で源氏に捕らえられた。
鎌倉に護送される途中、一時、源頼朝の家臣に預けられた
頼朝はいずれ処刑される囚われの重衡を哀れに思い、官女の千手前を重衡の世話役に遣わした。
千手前は聡明で容姿も性格も美しく優れた女性で、重衡は心惹かれた。重衡も賢く容姿端麗な男だったので、千手前は重衡を慕った。
二人は次第に恋仲になった。
囚われて一年後に重衡は木津川のほとりで斬首刑(享年29歳)になった。
千手前は重衡がで処刑された後尼となり、信濃の国(長野県)の善光寺で行を修め、重衡の後世、菩提を弔った。
本当に大雑把でごめんなさいm(_ _)m
でもこれぐらいが私の脳には丁度いい。
ネットで調べるといろんな説が検索できます。
平家物語は琵琶法師達の語りが基なので、その土地に根付いた伝承として平家物語があって別のパターンもありますが、上に記した物語でいいかなと思います。
重衡はいい男で千手前もいい女ということはわかりました。
出会った時にはすでに悲しい運命が決まっていたという恋の物語。
姫の身分ではない千手前ですが、やはりここは「千手前」ではなく「千手姫」と呼びたい。
悲しい恋のヒロインには「姫」がふさわしいと私は思いました。
「前」は名前の一部か、官女の呼び名に付く字かなと思ったのですがどうでしょう?
ここまで書いといて何ですが、夫に
「原文訳の平家物語と謡曲の平家物語は違うから、平家物語の原文訳を読んどけ。」
と釘を刺されました。
読んだつもりですが。
平家物語に詳しい人が私の文章を読んだら腸が捩れるくらい笑っているかもしれません。
でも書きます。
ここからが私の書きたいことです。
神社の総代と世間話をした日から数日後に寄り合いがありました。
私はその寄り合いに参加したのですが、数人の女性達でお喋りをしていると、一人の年配女性が
「姫様の御堂が綺麗になって良かったね。」
と言いました。
姫様の御堂?
社務の裏手には三坪ぐらいの御堂があります。
ボロボロの朽ち果てた御堂を昨年立て直していたのを覚えています。
「姫様の御堂って何ですか?」
私は年配女性に尋ねました。
「姫様が住んどったのよ」
「姫様ってどこの?」
「あれだよ、あそこの姫様」
年配女性の口から中々名前が出てこなかったので、隣にいたもう一人の年配女性が姫様の名前を言ってくれました。
「あれだがね、千手姫。重衡の首と一緒に来たのさ。弔うのに。」
「そうなの?千手姫がお堂に住んでたの?」
「そうだよ。ばあちゃんが言ってた。ここらの者はみんな知っとるよ」
その場にいた女性達は皆頷いていました。
そうそう、って。
私の調べでは千手姫は平重衡が処刑されてた後に尼となり、熊野御前を頼って白拍子村(現在の磐田市野箱)で庵を結び、24歳で亡くなるまで重衡の菩提を弔ったという物語でした。野箱に在る傾城塚が千手前の墓という伝えです。
磐田市観光協会のホームページに千手(寿)前が登場していることから地域に根差す伝承だとわかります。
磐田市民に愛されている千手姫。
だけど、だけど。
何の変哲もない古びた神社に、もうひとつの「千手姫物語」があるとは!
しかも親から子へ、そしてまたその子供たちに口伝です。
ネットで検索してもこの小さな神社の御堂に千手姫が住んでいた情報は見当たりません。
一般に知れ渡っている千手姫の余生はまやかし(まやかしの必要があるのかわからんが)で、この地の千手姫の口伝が本物かもしれない!
そう思うと私は興奮しました。
歴史が大の苦手な私が初めて歴史に魅力を感じたのです。
平家物語を伝える最も古い記録は770~800年程前なので、千手姫が住んでいたとされる御堂は当時の面影すらないでしょう。でも、千手姫が住んでいたということが語り継がれたのは何か意味があるのかもしれないと思うと、心がわくわくします!
私の脳みそ暴走しました。
総代の言っていた蛭河庄四郎が重衡を捕らえたというお話も伝承です。確かめる術はありません。
でも、でも、重衡の首塚が本物なら千手姫はこの土地でひっそりと生きていたかもしれない。愛しい人(墓)の傍にいたいと御堂に住みながら重衡を弔っていたかもしれません。
しかし千手姫らしき墓は見当たらないので、悲しみの中、生まれ故郷の野箱に帰った可能性があります。
千手姫は善光寺で行を修めたという件も伝承なので本当のところは定かではありません。他にもいくつか説があるらしいのですが、なにしろ800年前の事なので調べようがないです。
では、少し想像を膨らませてストーリーを組み立ててみましょう。
重衡の斬首刑から3年後の24歳で亡くなったとされている千手姫ですが、本当は生きて子孫を残しているかも。
日々泣き暮れている千手姫は優しく接してくれる村人に癒されて、やがて村の青年と恋に落ちる━(゚∀゚)━!
その青年は、何と、重衡を捕らえた蛭河庄四郎高家!
ここで、ストーリーに肉付け。
もう一度最初から。
重衡の首塚が存在する理由は・・・
重衡の埋葬される地へ行きたいがそこには妻の輔子がいます。
重衡を弔うことすら叶わぬ千手姫はこのまま一緒に死んでしまいたいと涙をこぼしました。
千手姫を不憫に思った蛭河庄四郎高家は、重衡を捕らえた褒美として重衡の首を貰い受け、密かに千手姫を自分の故郷に連れ帰った・・・!
蛭河庄四郎高家は重衡の首を手厚く葬って、
「ここで弔いなさい」
と千手姫をなだめました。
悲しみに打ちひしがれる千手姫を黙って見守る蛭河・・・略。
無口で優しい眼差しの蛭河庄四郎高家に千手姫は心を惹かれます。
重衡を愛しているはずなのに心は揺れ動く!
せつないねぇ。
ゴニョゴニョ。
等等妄想炸裂です。
・・・と大喜びでここまで書きましたが、私は無知で勉強不足ですから、すでに有名な話(妄想以外)なのかもしれません。
「皆知ってるよ」って年配の女性達が言っていましたから。
歴史が苦手の私ですが、これを機会に平家物語をじっくり読もうと思います。
もう少し書きたいことがあるのですが今回はここまでにします。
次回は重衡なる人物について書きたいなー、なんてね。
嫁さんいるよね?みたいな。
ここまでお付き合いくださいましてありがとうございましたm(_ _)m
先程も書いた通り、私は無知で勉強不足なのでどこか認識が間違っているところがあるかもしれません。間違いに気づいた方はコメント下さいませ。
口伝説 ー 地元の平家物語・千手姫ー
終
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