「お笑い芸人」は偉いし、これからもどんどん偉くなるという確信

私は、人の創作物に触れるのが全般に好きです。
 
映画も文学も音楽も漫画も演劇も全てに興味があるし、本当はそれらに優劣がないことを知っています。
 
ただ、とある一点において、私が修行中の身ではあるけれど、仮にも生業としている「お笑い」というジャンルについて、一点、他の表現のジャンルには負けないとても「偉い」点があるように思うのです。
 
 
それは「リスクを取っている」という点です。
もちろん、全ての表現活動はリスクを伴います。
多くの場合、頼まれていないことを自分から発信すること、たとえ頼まれていてもある形式を敢えて選択して発信することは、受け手の満足を得られなかった場合「ダサいこと」になり、見下される、非難されるリスクを伴います。
 
しかし、「お笑い」が他のジャンル以上にリスクを取っていると断言できる部分があります。
 
それは、ジャンルの名前がそのまま結果を表している、ということです。
正確に言えば、「ジャンル名=お客さんの感情」ということです。
 
 
これだけ言ってもよくわからないと思うので、詳しく説明します。
例えば、「音楽」や「映画」は表現の「手段」がそのままジャンルの名前になっています。
「音楽」と聞けば、できるだけ人の心を動かすように奏でられた音なんだな、と想像がつくし、
「映画」と聞けば、できるだけ人の心を動かすように紡がれた映像なんだな、と想像がつきます。
 
しかし、「お笑い」とだけ聞いても表現の形式は想像がつきません。
 
漫才かもしれないし、コントかもしれない。
漫談かもしれないし、落語かもしれない。
モノマネかもしれないし、歌ネタの可能性もあります。
 
それでも唯一、宣言されていること、保証されていることがあります。
 
それは、結果的に「笑い」が起きるということです。
『お笑い』というジャンルだけが、結果的に見る人の心に起こる感情を予告しているのです。
 
こんなジャンルは他にはないのではないでしょうか。
例えば、映画を観て感動する我々は映画監督のことを「感動監督」、映画館のことを「感動館」とは呼びません。
音楽を聴いて快感を得る我々はコンサートのことを「快感ライブ」とは呼びません。
 
しかし、お笑いの会場は「お笑いライブ」、お笑いの演じ手は「お笑い芸人」です。
 
笑いという結果を宣言している以上、笑いが起こせなければどんな素人にも「スベった」と評価される。
それは大きなリスクです。
 
 
私は他の表現ジャンルについては素人(もちろんお笑いについても素人に毛の生えたようなものですが)なので滅多なことは言えませんが、
音楽で人の心を動かせなくても、「でも演奏は上手だったね」というフォローの余地が大いにあるのに対し、
 
お笑いでスベったらほとんどフォローの余地はないということは大きな違いなのではないかと思います。
 
逆に、芸が貧しく能力が低くても、たまたまだとしても、結果的に笑いを起こした者が偉いというのはお笑いに特有の価値基準でしょう。他のジャンルでは、笑いの量(=ウケ)のような目に見える基準がないので、そもそも一見さんが結果を瞬時に評価するのは難しいことが多いでしょう。
 
もちろん、それが即ちお笑いの他のジャンルへの優越につながるとは言いません。
リスクの取り方は表現の真価とは関係ありません。
 
しかし、リスクを取った方が同じ結果を出した時に評価されやすいのは、人間がお客さんである以上、当然のことです。
 
「笑いを取れます」という名札をつけて登場し、有言実行して笑いを取る人はかっこいい。
 
そういう人が評価を得やすいのは当然で、そのことはもっと広く認識されてもいいのではないかと思います。
 
近年、お笑い芸人の方が報道番組でコメンテーターをすることが増えたことへの是非が話題になったりします。
また、お笑い芸人の方が政界に進出するのは、いまに始まったことではありません。
これも同じことではないでしょうか。
 
肩書きで「お笑い」という結果を保証する宣言をして人前に出た人物が、結果保証を宣言せずに人前に出る人物の何倍速ものスピードで名声を獲得するのは当然でしょう。もちろん、その上でのコメンテーター、政治家としての資質は別に問われるべきですが、少なくとも打席に立つ機会が増えるというのは当事者の意思にほとんど関係ないくらい、到って当然のことだということです。

もっと言えば、『お笑い』芸人ならどんな方法であれ笑いを起こしさえすればいいのであり、それ以外に何か旧来の基準を引っ張り出してきて「『芸人』たるもの」などと語るような人は、かえって『芸人』らしくないのではないでしょうか。
 
 
昔は「河原者」などと言われた被差別身分の人が芸人を務めていたのは有名な話です。
既得権益の時代には、それが適材適所だったのでしょう。
身分が価値を生み、保存する時代、良家に生まれた子女が、敢えて笑いを取りに人前に出るリスクを侵すメリットはありません。
   

しかし、身分の価値はどんどん小さくなっています。
身分に変わり、今価値を持つのは「行動」です。
「立場」の時代から「行動」の時代へ。
その中でよりリスクを取れる人の評価が上がるのは自明の変化です。
 
前述のように、表現や創作はそれだけで大きなリスクを背負う行為です。
予言というほどのことでもなんでもなく、今後クリエイターの地位が上がっていくのは至極当たり前のことです。
 
その中でも、よりリスキーな「お笑い」芸人の地位が上がっていくのも、もう完全に当たり前のことのように思います。
 
事実、年々お笑い芸人の数は爆増しています。
一人一人はそこまで深く考えていないにしても、芸人の地位が上がっていくんだろうなという匂いは、かつてよりも今の若手芸人の方が感じているのではないでしょうか。
 
今後、「快感演奏家」と自称するミュージシャン、「感動監督」などと自称する映画監督など、
肩書きに結果を入れてリスクを取る表現者が増えていくのではないか、ということも想像に難くないです。
 
 
また、芸能をはじめとし多くのジャンルで素人とプロの境目が曖昧になって久しいですが、いよいよその境目が全く意味を持たなくなるでしょう。
 
昔は自分の文章力や美的センスのレベルを知る機会なんて、せいぜい学校の作文や美術の授業くらいのものでした。
ところが今や若者はみんなTwitterやInstagramをやっていて、周りの人間と比較して、自分の表現力がどのくらい人にウケるものなのか大方知っています。
 
遠くない未来、若者がみんなマンガや小説や歌や作詞作曲やダンスや演技や彫塑やお笑いやデザインや写真やら、一通りの表現活動にチャレンジした上で適性あるジャンルを選ぶ時代が来るんじゃないかなあと思います。と言うか、もうほとんどそういう時代になってきてますよね。
 
もしそうなったら、表現者としての道じゃない人生を選択した人も、表現者、創作者に対してリスペクトを持つ世の中が訪れるのではないかなと淡く期待しています。
 
 
 
※最後まで読んで頂きありがとうございました。そんなに気軽に書けるタイプの文章じゃないので、今後も読みたいと思ってくれた方からのサポート大歓迎です。

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