ひとつ上の学校にすすむ意義はひとつまえの学校の内容をやさしく感じて活かすことにあるのではないか
はじめに
このクニでは幼児教育をべつとして小学校から大学院博士課程までだと、じつに21年ほど学校(+大学・大学院)に通う機会が設けられている。もちろんほかの道すじもある。わたしは人生の4分の1ほどを学びに費やし博士号を得たことになる。もちろんそののちもみずから学ぶチャンスはある。
ふりかえるとひとつまえの学校で身につけたこと、あるいはものの見方や考え方をそののちの人生で活かすぐらいがちょうど無理がなくていいのかもしれないとふと思った。
きょうはそんな話。
まなびつづける身として
いまもふたつのしごとをつうじて生徒たち、学生たちのまなびをサポートしている。中学生~大学院生が多い。まさかこんなにもながいあいだ教育にたずさわるとは思ってもみなかった。
学校の課程にこしょうをかけたぐらいを加味したことを教えて報酬を得る。もちろん世の方々には社会に出て会得したことを生業とされる方もいらっしゃる。
農業やアルバイトもふくめばほかにも関わった。ここでふりかえってみたい。教育の機会とはヒトの成り立ちにどれほど寄与し、糧を得るまでの素養として機能するか。仕事以外で生きるうえでどれほど影響を与えうるものか。
もちろん学校などを卒業したあとにも学びのチャンスはある。むしろそこから先でどれだけ高められるか、学校ですごし会得したことをどれほど基盤にしうるか。
どんなレベル
学校で身につけたもので直接役立つのものはそんなに多くないかもしれない。だがすくなくとも地球上でおたがいを尊重する素養を身につけるうえで教育は無視できない。例外なくあたえられた権利だろう。ニンゲンとしてうまれたからには等しく普通教育をうける機会は当然の権利といえる。
それなくしては社会生活を営んでいくのはむずかしい。それぞれのヒトにとり、学校教育を通じて得た社会性、技能、技術、教養などを世のなかで活かそうとすればなおさらのこと。
ひとつまえの学校で
たいていのヒトビトには段階を経た学びの機会がある。それは諸外国でもほぼおなじ。その途上でふりかえれば、ひとつまえの学校で学んだことは学びつつあるものとくらべると大部分はやさしくシンプルにみえる。
すでに習得のレベルがその上の段階に移りつつあることを意味している。登山にたとえると、登りつめていくことでふもとを遠くまで見わたせる。じつはひとつまえの学校での学びを、つぎの学校で基盤として自分のものにして活かせることこそ、上の学校に通う意味ではないか。
おわりに
たとえば高校3年生にとって、中学で学んだ3年間の内容のほとんどはやさしく見えるだろう。それでじゅうぶん高校に通うだけの意義になるということ。そう感じられるまでに経た行動に意味がある。大学院を出るということはおなじく大学で得た広範囲のものを活用できるということ。
そこまですすむとつぎの世代にバトンタッチする段階になるはず。そこで待つ若いヒトビトへ受けわたせばいい。
齢をかさねて教育にどっぷり首までつかり、ようやく最近そう考えるようになった。ひとつまえの学校で身につけたことこそ、むりなく血や肉となり糧を生んでくれるもととなる。それでいいのではないか。
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