病気あれこれ

 初めて精神科に行ってからかれこれ8年ぐらいになる。8年と言うのは簡単だが、結構バカにならない年月だ。赤ちゃんが生まれてから小学2年生になるまでの年月と同じと考えると割とぞっとする思いがする。しかし、最近は親の目や適切な処方で、丸々2年ぐらいはまったく調子を落としていない。気分が落ち込むこともなければ、異常なアッパーにもならず、幻覚も見ず、パニックも起こしていない。たまに一睡もできなかったりするが、それぐらい普通の人でもあるだろう。振り返ってみて、この自分の8年はなんだったのだろうかと思う。傷害事件を起こしたり、アウトラストみたいな精神病院に入れられて毎晩隣の部屋から絶叫が聞こえてくる入院生活を過ごしたりというなかなかエキサイティングな経験もしたが、そういうのは俺の病気生活のごく一部でしかない。もっとささいなことが俺を苦しめていた気もする。ものを覚えられなくなったり、友人や交際相手を意図せず傷つけてしまったり、一時的にであれ親と適切なコミュニケーションを取れなくなったり。そして、多くの病気に苦しむ人々は、そういったささいな苦しみが蓄積する中で生きている。ほとんどの苦しみをもう忘れてしまったが、そういった過去があることは事実として残っている。しかし年を取るというのは恐ろしいことで、そういう事実すらもう喉元を過ぎれば大体はどうでもいいのだ。客観的に自分の病気を眺められるようになった今、自分の経験したことを忘れないためと、人が俺の備忘録を読んで、ここまでダメでもなんとか社会復帰できるんだということを確認できるためのものとして、短くはあるが少し思い出話をしようと思う。

 俺が障害者手帳と障害年金を受給されて暮らしていることは俺と仲がいい人なら割と知っていると思う。俺はあまり自分の障害を人に隠すことはしていない。かわいそうと思ってもらいたいからではなく、そのあとのコミュニケーションで変なわだかまりを抱えないためである。申請病名は統合失調症の2級だが、厳密には違っていて、統合失調感情障害が正しい。言葉遊びではなく、DSM-Ⅴの分類で異なっているのだ。定型統合失調症は循環性の気分障害エピソードは発症せず、診断の条件として妄想が必ずある。統合失調感情障害は、①統合失調症に見られる妄想、幻覚、幻聴のいずれかが欠けており、②循環性の気分障害エピソードが見られる。俺は躁鬱エピソードが明確に出ていたし、飲んでいる薬も躁鬱病の薬が多かったのと、妄想だけは出なかった(後述するように、特定の期間で妄想は発症した)ことから、統合失調感情障害という診断が下っている。あとはWAIS-ⅢでADHDの診断が出ている(言語性IQと動作性IQに50以上の差がある)が、これは正直あまり困ったことがない。強いて言えば鍵をかけ忘れるとか机の上が散らかりがちとか感覚過敏とかだが、まあ普通の人よりちょっとボケてるぐらいだと思う。ともかく俺はこの統合失調感情障害とやらにずいぶん悩まされてきた。以下に寛解に至るまでのプロセスを年齢ごとにまとめる。

 ①19歳…初めてパニック発作が起こった時のことはよく覚えていて、渋谷ハロウィンの帰りだったから、2016年の10月31日だった。その前からイライラしたり、理由のない憤りで気分が支配されることが多くて困っていた。ちょうどそのときは大学1年生で、始めたての塾講師のアルバイトで全然うだつが上がらず、毎日のようにほとんど出ないと言っていい給料のために出勤してはパワハラ上司に怒鳴られまくっていたのと、大学での人間関係がうまく行かず、プライベートでも悩みが多かった。ハロウィンの日、大学の帰り道で東横線に乗ろうとしたら、電車の音や光、周りの雑音が自分の処理できる情報のキャパシティを越えるのが分かり、息もできなくなって立っていられなくなった。初めてのことだったので対処のしようがなく、落ち着くのを待って電車に乗るしかなかったが、めまいもするし、心臓もバクバク言うし、普段なら渋谷から自宅まで40分ぐらいで帰れるところを2時間ぐらいかけて帰った。金もなかったのでタクシーも使えないし、何より親にこの状況をどう説明していいかわからなかった。意を決して親に言うものの、甘えだ、とか、お前が弱いからだ、とか言われて(これを言ったのは父で、母は毎回庇ってくれた)、文字通り八方ふさがりの状態だった。友人が多い方だったのは幸いだったと思う。友人の紹介のメンクリに通い出し、2週間でパニック障害の診断書が出て、バイトをやめた。普通こうなると大学に行けなくなる人が多いらしいが、俺は家にいるより友人がいる大学に行くのが救いだった。人が多い電車に乗れないので毎日始発の電車に乗って、部室や喫茶店で時間をつぶし、夜遅くに帰る生活だった。年明けには懸念していた人間関係が解決したのと、父親が変わり果てた俺の姿を見て考えを変え、病状は比較的落ち着いた。

 ②20歳…夏ぐらいまではパニック発作も起きず、完全に治ったと思っていた。新しいバーテンダーのバイトを始めて、それも楽しかったし、初の交際相手ができたり、大学の進振りで行きたいコースに行けたりして、かなりトントン拍子だった。が、またしても渋谷駅でパニック発作が再発、今回はそれまでのパニック発作と明らかに様子が異なり、あまりにも激しい発作だったので短い時間ではあるが完全に気絶(便宜的に気絶というが、これは統合失調症の症状で、昏迷という)した。目覚めたら駅の救護室にいて、親と彼女が来ていた。当時別件で親との関係が悪かったので、家に帰らず、そのまま彼女の家に行き、二か月ほど同棲することになった。母親は理解していたので、彼女と親だけで面談し、俺をしばらくの間お願いするという形になった。この同棲中に俺は劇的に悪化し、幻聴、昏迷、健忘、身体感覚の異常(全身が虫を這うようにぞわぞわする感じ)、観念奔逸、などなど、大体の症状を経験した。定期的に親に生活費を振り込んでもらっていたが、浪費や性的逸脱も激しく、ギャンブルや風俗に使い込んでは彼女に泣かれた。このときかなり彼女は疲弊し、のちの別れの原因はこの同棲生活だったと思う。当時は世界の輪郭が完全にぼやけ、自分がどこにいるかさえほぼ完全に分からず、体が内部から溶けていくような感覚と何かに追われ続けているかのような疲労感と焦燥感を常に感じており、救いだった大学に行くことさえできなくなった。友人と会うことは続けていたが、彼らがいなかったら今自分の命があったか怪しい。10月に障害者手帳を取得した。またしてもバイトを半分バックレのような形でやめ、彼女とも別れた。その後は大学3年全体を通じた鬱症状に悩まされることになる。

 ③21歳…かろうじて20歳の頃の最悪の状態をオランザピンという向精神薬のおかげで切り抜け、小康状態に回復した。が、今度は躁鬱病の症状に悩まされた。アッパーのときは3日ほど眠れないのに何も手につかず、下がっているときは布団から1ミリも動くことができない。相変わらず大学に行くこと(この時期はあまり真面目に授業に出ておらず、キャンパス最寄りの駅に着いてもフラッといつもの喫茶店に行ったり、公園で酒を飲んだりして時間を潰すことがほとんどだったが)は続けていたが、それがかろうじてのペースメーカーであったものの、鬱がひどいときは大学に行けなかった。新しいバイトに受かり、そこで自分はADHDなのではないかと思うようになった。喫茶店のバイトなのだが、ホールの下げ物をなぜか下げられなかったり、コーヒーの作り方を何回も間違えたりして、今は仲良くなったが当時は怖かった先輩に怒られまくり、またしてもうだつが上がらなかった。秋ごろから明確に鬱病の症状が出始め、一日中特に理由のない悲しみに押しつぶされて涙が出るし、根拠のない不安感を感じたり、ひどいときはどうやったら死ねるかを布団の中で考えていたら日が暮れていた。コミュニケーションにも支障が出始め、親と喋れなくなった。自分の部屋で飯を食うようになり、毎晩強い酒で精神薬を流し込みながらアニメを観ている時間だけは病気を忘れられた。パニック発作も外に出ると再発するようになり、バイトの休憩でロッテリアに寄ろうと外に出たら視界が歪み、仰向けに倒れて店内に担ぎ込まれたこともあった。私生活もギャンブルと風俗以外に楽しみがなく、院進すると大口をたたいた割には何も調べていないし勉強していないしであまりいい思い出がない。ただ、夏休みに友人たちと貧乏旅行に行ったのは当時の数少ないいい思い出である。

 ④22歳…毎年そうだったのだが、冬に重い鬱が来て、バイトを欠勤しがちだったり、外に出れなくなったかと思えば、暖かくなってくると今度はアッパーに突入、昼から酒をありえない量飲み、多弁になり、友人に呼ばれればどこにでも行き、金をジャブジャブ使った。もう学問への意志もなくなっていたので、院試をあきらめ、6つ空いていたピアスを全部外し、髪を黒く染めて、スーツを買って、就活を始めた。が、3日で挫折。俺就活するからよ!お前らは社会のゴミとして一生漂ってろ!と友人に啖呵を切った次の週には俺の髪の毛の色は紫色になっていた。今考えてもかなり無理があったと思う。ただ、完全に将来がリセットされたことで体調は好転、病気を発症してから秋口ぐらいまでは過去最高の調子だった。バイトのシフトを入れまくって夏休みは週5で働き、旅行に行ったり好きなアイドルのCDやグッズを買ったり、この年は非常に充実していた。秋に新しい彼女ができてから様子が一変、相手も大変不安定な子でお互いに振り回しまくり、徐々に体調がおかしくなり始める。年末は例によって重症の鬱を発症、デートにすら行けなくなる。「躁鬱病のリーサルウェポン」と名高いリチウムを服用しはじめ、だましだまし日常を送る。面白いことに、思い返してみれば20歳のときと23のときは統合失調症的なエピソードが強く出て、21歳と22歳のときは統合失調はほぼなく、代わりに躁鬱病的な側面が強かった。相変わらず親との関係はあまりよくなく、女性との交際もよく思われていなかった。なんとなくだが、当時の体調悪化は家庭と恋愛の板挟みで、自分も子供だったのでどちらを優先していいか分からず、どちらも困らせて自分も疲弊するのを繰り返していたように思う。ADHDの診断も正式に下り、ストラテラを飲み始めるが、ふらつきや悪夢などの副作用が強く出てすぐにやめた。

 ⑤23~24歳…コロナで緊急事態宣言が連発され、日常全体が鬱屈とした雰囲気と出口の見えない絶望に満たされており、病気もよくない状態のまま年を越してしまったので余計精神状態が悪化した。彼女とは夏におあいこの喧嘩別れをしたあと、卒論が迫っていたので躁と統失特有の異様なペースでこれを完成させる(初稿はグチャグチャの状態だったので提出寸前まで指導教官の赤が入った)。書きあがった後は何かの糸が切れたようにバッド状態に突入、躁鬱混合状態になり一日おきに極端なアップダウンを繰り返すようになる。コロナだったのと他にやることがなかったのとで文章の生産は質はともかく自分基準ではとんでもない量を書いていた。20歳のときの「世界の輪郭がぼやけ、体が内側から溶けていくような感覚」が戻ってきて、今度こそもう俺は死ぬと思いながら毎晩多摩川のほとりで自殺できない惨めさに泣いていた。夜中に大暴れする、意志の伝達がほぼ不可能、強制的に眠らせるような睡眠薬も効かないという過去最悪の状態になり、初の精神病棟入院を経験した。ここでの入院生活は比較的快適だった。部屋にコンセントもついているし、ネット環境もあるし、喫煙所で仲良くなった人がいたり、悪い思い出はあまりない。ただ、入院患者の統合失調症の人妻に貞操を狙われかけ(夜這い寸前のことをされた)、親に泣きついて逃げるように退院。精神病院の当時の先生と母親の勧めで一人暮らしを始めるが、そもそも不安定な精神状態だったので生活費を一日でコンカフェとメイド喫茶に使い込み親にタコ怒られをするなどがあった。監視の目がないので夜通し酒を飲んだりして薬も飲まなくなり、病状は進行した。そんなこんなで大学の卒業式の日に打ち上げをしている最中に錯乱状態になり、紹興酒の瓶で知らない人の頭を吹っ飛ばして留置所に入る。雑居房で同じになった人がみんないい人だったのと、薬はもらえたので、なんなら一人暮らししていたときより病状は安定した。が、起訴されるかどうかや民事裁判で損害賠償請求にもつれこむ可能性の不安が日に日に大きくなり、23日間の最後の5日間は人生で一番長くつらい5日間だった。相手が急所を外れて軽傷だったのと、示談金の交渉が成立して出所。それと同時に拘禁症状で幻覚や幻聴が悪化、このときばかりは妄想も発現し、2度目の入院。今度はボロ病院の閉鎖病棟だったのでマジでアウトラストだった。俺もこの間にさらに悪化し、退院後丸々1週間眠れずひたすら妄想と幻覚と幻聴に悩まされた。妄想はみんな(誰というわけではない)がお前は罪人だから死ぬべきだと思っていて、俺は死ななければならないんだという考えがずっと頭から離れず、幻覚は虫の残像のようなものが網膜の裏側をひたすらチラついていて最後の方は視界の確保が危うかった。一番ひどかったのは幻聴で、ファミマの入店音や電話の保留音(クライスラーの「愛の喜び」)が爆音で鳴りまくるというありさまで、もう発狂しているのだがもう一枚壁を破っていたら幻聴から解放されるためにベランダから飛び降りるぐらいはしていたかもしれない。一番重要な薬を飲み忘れていることに気づき、飲んだ後はほぼ昏倒状態になり、意識が回復したあとはなぜか二週間ほど咀嚼と嚥下機能が不全になってゼリーで生活した。覚えているのは、起きていて7日目の朝に「ここは色がある!」と絶叫しながら飛び跳ね、まったく理解できない父親がキレたら俺が玄関にあるモンドリアンの絵画にパンチを叩きこんでくずおれたくだりである。自分で書いていても面白くないボボボーボ・ボーボボみたいなシーンだなと思って現実感があまりないが、これは虚飾なき事実である。友人や先輩たちとの助けもあり(コロナによる外出規制がゆるくなってきて、実際に会って話すことができるようになったのも大きい)、病状は緩やかに回復していった。

 ⑥25~27歳…毎日欠かさず薬を飲んでいるが健康そのもの。アップダウンも認知機能障害もない。リチウムは完全に切っており、主な治療薬であるロドピンの副作用の震えを抑えるビペリデンももうすぐ絶つことになる。とはいえ、普通の人が飲んだら気絶する強さの向精神薬を何錠も飲んでようやく正常という状態なので完全な寛解ではないが、事実上の寛解と言ってよいだろう。

 以上が8年間の俺と病気の歩みである。振り返ってみて、考えられる病気の外的要因はおおまかに言って二つある。一つは家庭の問題。うちは別に毒親というレベルでもないのだが、リベラルなんだか保守的なんだかよく分からない教育方針なのと若干過干渉気味であり、放縦志向が強い自分ととりわけ20代前半の頃は軋轢が多かったのはあるだろう。今は比較的うまくやれている(たまにうんざりすることもあるが、普通の人なら社会人5年目の年齢の実家暮らしの人文院生のドラ息子を養ってくれているので基本的に感謝しかない)。二つ目に恋愛の問題。なぜかわからないがパートナーができると如実に体調を壊す。相手の気持ちがわからない状態が不安に追い込まれるのだろうか。これは個人的に今でもネックで、これのせいでちょっと気になる人がいても新しい関係に踏み込めないのはある。よかったことは、同性の友人が(たぶん)比較的多い方だったこと。もちろん特に仲の良い友人はいるが、複数人いたので依存先を分散できた。俺は頭が特段切れるわけでもないし、鈍臭いし、口下手だが、自分のことを信頼してもらおうという気持ちで人と接してきたごほうびのようなものだと思っている。病気関係なく、彼らとは良好な関係でいたいと思っている。

 短いとは言ったが、特に何も考えずに書いていたら7000字近くなってしまった。第一に備忘録なので、これは特に個人的な性格が強い記事だし、病気は10人いたら10人の在り方がある。俺は精神疾患とはハンディキャップであると同時に特殊なライフモデルを自分で構築するきっかけとしての側面もあると思っている。当然周りの人の理解の上に成り立っていることを自覚しなければならないが、最終的に病気と付き合っていくのは自分ひとりであり、それは「一緒に濡れる」ことは絶対にできないし、巻き込んでもいけない。それは家族も恋人も友人も同じである。そして、もしこれを読んでいる人で病気に苦しんでいる人がいるなら、「絶対に治ってやる」という意思を最後まで捨ててはいけない。結局気持ちの病なので、治すという意思があれば完全に病前の状態とまでは行かなくてもある程度は回復するし、ないのであれば一生治らないか悪化する一方である。観察し、診断するのは医者のみではなく、自分もそうなので、必ず寛解するのだという気持ちを持ちながら状態が良好なときの生活リズムや体調を把握することが肝心である。
 病気に苦しんでいる精神疾患当事者や、支えている人々全員が報われてくれることを心から願っている。


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