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現代における愛のあり方②

前回は広辞苑と他人の意見の話で90%が終わってしまったので、今回はようやく僕の中の太宰治を活躍させたいと思う。『恥の多い生涯を送ってきました。自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。』、、、おっと失礼。本当に太宰治になって代表作である人間失格の冒頭部分を書いてしまったことを謝罪したい。また、一瞬でこのボケに気づいてくれたあなたには教養人であると拍手を送りたい。本題に移ろう。

前回、恋と愛の違いについて河合塾の講師に尋ねた際、自分本位のものか相手本位のものかという部分において大きな差があるという話を聞いて感銘を受けたと述べた。今回は、これが結局どういうことなのか、私がこれをどう解釈しているのかという話になるが、分かりやすく言えば見返りを求めるか求めないかということに差異があると解釈している。結局のところ恋は、気持ちを返して欲しくて、自分を好きになって欲しくて、自分が相手のいちばんになりたくてするものだ。一方で愛は、自分がどうこうではなくて無条件にただひたすら相手の幸せを願うということではないだろうか。相手に好きな人が出来たのなら、自分はそっちのけで相手がその人と結ばれることを祈り応援する。相手に夢ができたのなら、その夢が叶うことを祈り応援する。本質的なところ愛に自分という人間の存在はもはや不要なのだ。それこそ愛の究極体は「自分が死んでも相手を助ける」という所に辿り着くだろう。自分が死んだら自分には何も見返らないのだから。そこまでして相手の今後の人生を最重要視出来ればそれは愛の最終地点なのではないだろうか。結局のところ自分の未来に主軸を置いている思考なのか、相手の未来に主軸を置いている思考なのか、恋と愛の最たる違いはこの部分であるはずだ。

しかしながらこの現代社会において、自分が死ぬか相手が死ぬかという2択を迫られることはまずないので、もう少し具体的な例で見ていこう。やはり愛の最たる例といえば親が思い浮かぶ人が多いのではないだろうか。

残念ながら私はバカ息子の最たる例であるという自覚がある。小学生の頃、家の近所に住んでいた岡田君というメガネっ子から「中学受験塾が楽しい!」という話を聞いて、まんまと刺激を受け中学受験塾に通わせろと喚き、親族の誰もが予想していなかった中学受験をした。それは奇跡的にまぁまぁの成功を収めた。しかしそこから高校卒業までの6年間、勉強をサボりにサボり散らし、偏差値にすると15ほど下がった状態で大学受験を迎え、私立文系の大学生になった。そこでも大学生になったら自分でバイトをして遊ぶ費用くらいは自分で稼いでくるだろうという親族中の予想を裏切り、「行っちゃいたい気分になった」という不可思議な理由で突然、強豪アメフト部に入部をした。さらにそのアメフト部はバイトが禁止であり、練習の終了時刻が夜更けだったため、大学付近への下宿を余儀なくされた。学費だけにとどまらず、生活費、下宿費用、部活にかかる費用の全てをしっかりと両親からの援助で賄った訳だ。そしてさらに、大学を卒業したら真面目に働くだろうという親族中の予想を裏切り、大学を卒業してもまっすぐ就職せず、少しの期間YouTuberを目指すなどしてフラフラした。そしてようやく、それなりの企業に就職をして落ち着いたと思われた矢先、親族中の予想を裏切り「人生このあたりで勝負する必要性を感じた」という訳のわからない根拠で会社を退職して歌舞伎町でホストになった。最近はもう父親はかなり呆れ気味で気まずくてほとんど連絡をとっていないが、そんな中でもママンは「いつでも帰ってきな〜体に気をつけてね」とあまりにも暖かい受け入れスタイルを崩さないでいる。ぶっちゃけもう普通になぜ縁が切れていないのか不思議なレベルだ。見返りなんて求めていたらこんなドラ息子と付き合っていけるはずがない。絶対に自分の人生のことだけを考えるなら僕とは距離を置くべきである。しかしながら「どうしてもやりたい」とゴネれば大体のことを許可し続けてくれ、サポートしてくれる僕の親の姿勢たるものは、まさしく愛と呼ぶに他ならないものだろう。

その他の例であればペットに対する感情も愛と呼べるのではないだろうか。彼らは確かに容姿が端麗で愛くるしい存在ではあるが、最低限の水と食事と寝床を与えれば生存は可能である。近くで生きて癒しでいてくれることが重要な彼らに対して、やり過ぎなほどに住環境を整え、極めて高級な食事を与えることは必須ではない。別にそれを与えたからといってさらに容姿が端麗になるわけでもないし、特別な恩返しがある訳ではない。ただ彼らが快適に過ごせるように、ただ彼らの幸福度があがるように、マストではないオプションを付けている訳である。

友人関係などにおいて愛が成立するかどうかは難しい。なぜなら人はわざわざ百害あって一利なしの人間と友人になるとは考えにくいからだ。基本的に一緒にいて楽しい、面白いと思う相手を友人にするのが人間である。共に過ごす時間に価値を感じられる相手を友達にするのが人間である。そのため、部分的に切り取れば一見なにか無償の愛的な奉仕があったとしても、それは大枠で捉えるとその相手と過ごした過去の時間への恩返しであったり、未来への投資だと考えられてしまう部分がある。

次にボランティア活動や寄付。これらは基本的に返ってこない。著名人が大々的にアピールをしながら行った場合は好感度という形で返ってくるケースもあるが、お忍びで多額の寄付金を贈ったり、一般人がある程度の寄付をした場合において、それらが自分の身に返ってくるということはまず考えにくい。見ず知らずの困っている誰かのために、己を削り、身銭を切る行動がボランティアであり寄付な訳である。これらは、見返りを求めず相手のことを考えて行動するという点で愛の要件を満たしているが、これらの行動に関しては100%の愛で行われているというよりは、正義感であったり人としての優しさなど、その他の要素も絡み合っていると考えられるためこの辺りに留めておきたい。

愛の形として非常にしっくりくるものがある。これはアイドルヲタクである。一部のわきまえていない頭の悪い人たちを除き、自分が相手の何かになれるなどとは思っていないけれど、それでも好きだから応援をしている。いつの間にか気がついたらなくなっていたが、AKBの総選挙などはその最たる例である。例えその総選挙に自分がいくら使ったとしても、なにか自分に直接的な見返りがある訳ではない。ただ、推しメンの順位が上がるだけ。愛した推しメンが、ひとつでも上の順位で名前が呼ばれるように、ひとつでも上のチームに入れるように、ひとつでも上のポジションで歌えるように、ヲタク達は各々、文字通り死力を尽くして同じCDを無限購入し、推しメンに投票をしまくっている訳である。ハッキリと言ってしまえば、推しメンが1つ上のポジションで踊っていようがヲタクの人生は何も変わらない。そんな事は百も承知で、それでも推しメンの夢のために、推しメンの笑顔のために踏ん張る訳である。もはや彼らにとって、自分の幸せとはすなわち推しメンの笑顔になっている訳だ。若干狂ってはいるが、ここまで自分を犠牲にしてでも相手を思う強い気持ちは愛に他ならないだろう。

頑張って例を挙げてみたが、本当に見返りを求めていない純粋な無償の愛というものは極端に少ないということに改めて気がついた。自分の人生において、自分を犠牲に捧げてまで誰かを支えることが正しいことなのかどうかは分からない。しかしそれほどまでに心から愛せる誰かに出会えること、それ自体は幸せな事なのだろう。愛し抜いた先に待つものが絶望でないことを心から祈る。

あとがき

多分①書いてから②書き終わるまでに2ヶ月半くらいかかった気がするんよな。しょーみ難解すぎた。全然納得いってない。難しすぎて最後とりあえず『愛し抜いた先に待つものが絶望でないことを心から祈る。』とかよく分からん締め方した。最後の抵抗イキリやと思って優しく見守って欲しい。8回くらい心折れたもんな、書いてる最中。もうそっと書くのやめようと思ってたんやけど、数人の知人達から「執筆やめたん?楽しみにしてるねんけど」っていう嬉しいクレームが届いて、その度に踏ん張ってちょっとずつ書き進めていったらまぁなんとかこのテーマのフィナーレまでは漕ぎ着けたかなって感じ。まぁでもそこまで納得いってない。結局のところ、愛がなんなんかを探すのが人生なんやろなって、そんな気がしてる。

とりあえず今、インフルエンザで寝込んでるので、愛ある人は励ましてください。

次回の執筆は【ホストはなぜ飛ぶのか】についての予定です。書いて欲しいテーマなどあればじゃんじゃんリクエストください!

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