落合陽一

メディアアーティストで光や音や物性や計算機メディアの研究をしているような感覚的物書きで…

落合陽一

メディアアーティストで光や音や物性や計算機メディアの研究をしているような感覚的物書きで博士持ちのスナップ写真家です.多様性社会を目指す波動使いの准教授.noteは作家としての個人的な発信です.ご連絡はリンク先のお問い合わせまで. https://yoichiochiai.com

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  • 落合陽一の見ている風景と考えていること

    落合陽一が日々見る景色と気になったトピックを写真付きの散文調で書きます.落合陽一が見てる景色や考えてることがわかるエッセイ系写真集(平均で月25回くらい更新しています)

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    魔法の世紀

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    デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

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落合陽一が何者かわからないときに読むnote(無料配信)

落合陽一です.色々やっていると言われても,実は僕個人としては色々やってるつもりはなくて,何かで紹介されるとき毎回肩書きに「メディアアーティスト」と答えるように,基本的には広義のメディアアートを愛する32歳で,全てはその派生で生まれてきたものであることはずっと変わっていません. この記事は,目次的には個人(作家)としての落合陽一,大学教員としての落合陽一,会社経営者としての落合陽一,研究プロジェクトリーダーとしての落合陽一,メディアに出ている落合陽一,総括その他の順番に並んで

    • GW日記4日目:「布が割れた」

      布が割れる日もあるさ.染み出すんだ.というわけで,悩んでいた問題が大体解決したのでその考え方など.

      • GW日記3日目:「アートサイエンステクノロジー・呼吸レベルで噛み合うにはそこで生活しなくてはならない.スタイルとオブジェクト:デジタルネイチャーと質量への憧憬」

        アートサイエンステクノロジー・呼吸レベルで噛み合うにはそこで生活しなくてはならない. 私にとって「映像と物質」,「デジタルネイチャー」,「質量への憧憬」,「猫・キノコ・遊牧民」,「ヌル即是色色即是ヌル」のようなものスタイルである.デジタルネイチャーの展示も質量への憧憬の展示も2018ー2019だけど,大体スタイルは2-3年くらいおきに新しいものが他されている(作家は常に回顧展と新作を繰り返すようなものだからスタイルは継続する) 2015: 魔法の世紀:デジタルネイチャー 2

        • GW日記2日目:「残り2つのネタに悩んでいる」

          思いつきがいいネタが通過していった後は2つのネタに悩まされる.よくある話は最後にとっておいた方のネタが思いつくと最初のネタも思いつく,考える順番が逆なのでいつまで経っても片方が思いつかないというやつである.これ,人生で何十回も経験しているんだけれども何が原因かわからないからいつもこれで時間の損をする.文章も企画も作品のアイデアもそう.

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          GW日記1日目:展覧会の準備,私は東京を歩いている.トラ彦は寝ている.

          夏から秋にかけて展覧会が4つ控えているのでその準備を始めるゴールデンウィーク.コンセプトと作品を固めつつ,足りないアイデアを練るのに様々な場所で様々なものを見る. GWは昔から結構好きな季節なのだけど,毎年だいたいアトリエから出ずに作業をしていることが多い. 寿司も意外と重要なファクター(この写真はこの前有働さんと行ったお寿司

          GW日記1日目:展覧会の準備,私は東京を歩いている.トラ彦は寝ている.

          私は春のベネチアを歩いている.(その1)

          ビエンナーレがギルティ多毛作という話は前回書いた. その法廷に立つのも多毛作か? いやジャッジをするのは善良な市民のエンタメかと思いながらも批評性を考えるが,多毛作は否定できないと思う.

          私は春のベネチアを歩いている.(その1)

          4月、私はドバイを歩いている

          ドバイの街が好きである.シャルジャの街も好きである.

          4月、私はドバイを歩いている

          4月末,別日本について考えていた

          松岡正剛さんのところに何度か遊びにいっている. weeklyochiai にお越しいただいたのも,AIDAに行かせていただいたのも懐かしい. 楽さんとの掛け合いが良かった. 本が出るらしい(私は書いてないのですがなんとなく)

          4月末,別日本について考えていた

          江戸から旅に出た龍神を探して.私は佐倉を歩いている

          桜舞う佐倉を歩く.絶好の季節だ. 佐倉の街の構造は実に面白い.神社を中心とした古い街だ. ご案内いただいた佐倉の皆様麻賀多神社の皆様に大変感謝.

          江戸から旅に出た龍神を探して.私は佐倉を歩いている

          笛は風,太鼓は水.私は佐渡を歩いている.

          4月は旅多い日々だった.GWに突入したことはあまり生活に変化を生じない.いつも通りの平日はいつも通りにギチギチである. 地域と祭りと舞踊と音楽.観光産業としてではなく地域の中に根付いた地域芸能が続いていく美しさに魂を揺らされている.その美しさは私という計算機のクロックをアップさせ,センサーを鋭敏にする.魂は万物なる計算機の一部であり,有機的なソフトウェアだ.

          笛は風,太鼓は水.私は佐渡を歩いている.

          ベネチアビエンナーレ,ギルティ多毛作が溢れ出す

          植民地のようなアクション,贖罪と懺悔,そしてそのアセット化. ギルティ多毛作というべきアートの現場は今日も元気である.貴族のインスタを積み立てるルネサンス期絵画,貴族の推し活宗教画,貴族の石積立貯金教会.最近積み立てられているのは犯罪と贖罪と懺悔の物質化である. カウンターカルチャーや反体制アートとその出自をどう分けるかが問題であるが,シャルジャビエンナーレのときに感じなかった「多毛作感」がベネチアビエンナーレではそこらじゅうに漂っている.コンテクストが変われば作品も変わ

          ベネチアビエンナーレ,ギルティ多毛作が溢れ出す

          計算機自然について考え続けて早9年.

          2年前のことになる。日本フィルハーモニー交響楽団とのプロジェクトを毎年やっているのだけれど、その「遍在する音楽会」と名付けた2022年のプロジェクトでジョン・ケージのミュージサーカスを中心として音楽会を構成した。そのときにリサーチしている中でジョン・ケージの面白い言葉を見つけた。

          計算機自然について考え続けて早9年.

          55年後、我々は計算機自然の濁流の中にいる。生命は拡張され,彫刻は変容する。太陽の「烏」から「鏡」へのモチーフの継承は、質量のない自然の自由を建築へと連繋させ、展示の墓所性を生命へと転換できるか。

          というわけで万博1年前です.シグネチャーパビリオンの発表もあり今日は発表会.映像をまず見てね.

          55年後、我々は計算機自然の濁流の中にいる。生命は拡張され,彫刻は変容する。太陽の「烏」から「鏡」へのモチーフの継承は、質量のない自然の自由を建築へと連繋させ、展示の墓所性を生命へと転換できるか。

          幽体共鳴する空性の桜:ライブ編III

          というわけでIII

          幽体共鳴する空性の桜:ライブ編III

          幽体共鳴する空性の桜:ライブ編Ⅱ

          良きタイミングで始めてくださいー,からはいわかりましたー.からの というわけでアーカイブ動画をシェアです.

          幽体共鳴する空性の桜:ライブ編Ⅱ

          デジタル,古楽器、千利休。

          デジタル,古楽器、千利休。