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【TRAVEL】台湾~高雄・台南4DAYS③~烏山頭水庫探訪記

引き続き台湾旅行記になります。初回は台湾国内の鉄道周遊券について、そして前回は高雄と台南観光+奇美博物館についてご紹介しました。今回は台南から半日で行くことが出来る「烏山頭水庫(ダム)」へ行ってきた話をしたいと思います。


烏山頭ダムとは・・・?

まずは烏山頭ダムについての簡単な解説から。ウィキペディアに活躍してもらいました(笑)。

烏山頭ダム(うさんとうダム)は、台湾の台南市官田区にあるダム。旧称は烏山頭貯水池で、建設を監督した水利技術者の八田與一の名前に因んで八田ダムの名でも知られる。海抜468mの烏山嶺に位置し、水力発電設備を有す。上空からは緑色の珊瑚のように見えるため、ダム湖は珊瑚湖と称されている。

ウィキペディアより

日本統治時代に台湾南部の渇水対策として建設が計画されたダムで、アメリカのフーバーダムが造られるまでは、世界一の大きさを誇ったそうです。そして日本人として誇らしいことに、なんとこのダムを計画・設計・指揮したのが八田與一さんという土木技師なのです!

八田與一さんと烏山頭ダムについて

それでは次に八田與一さんについて簡単な解説をしていきたいと思います。もちろんここでもウィキペディアに活躍してもらいました(笑)。

1886(明治19)年石川県生まれ。東京帝国大学工学部土木科を卒業後、台湾総督府内務局土木課の技師として就職。当初は衛生事業に従事し、譚湾南部の各都市の上下水道の整備を担当。その後、発電・灌漑事業の部門に移り、水利工事を成功させ高い評価を受けた。その後1920(大正9)年から1930(昭和5)年まで烏山頭ダムの建設を指揮。ちなみに八田の採用した粘土・砂・礫を使用したセミ・ハイドロリックフィル工法(コンクリートをほとんど使用しない)という手法によりダム内に土砂が溜まりにくくなっており、現在までしっかりと稼動している。

ウィキペディアより

八田與一さんのエピソード

烏山頭ダムには八田與一さんの功績が称えられていますが、お人柄が偲ばれるエピソードもいくつか紹介されていました。まずはウィキペディアに登場しているものから。

ダム建設に際して作業員の福利厚生を充実させるため宿舎・学校・病院なども建設した。爆発事故の翌年には関東大震災が起こり予算削減の為に作業員を解雇しなければならなかった。八田は、有能な者はすぐに再就職できるであろうと考え、有能な者から解雇する一方で再就職先の世話もした。

ウィキペディアより

この合理的な発想は現代にも通じますよね、恐らく多くの場合、こうしたケースでは立場の弱い者から解雇されることが普通だと思うのですが、八田さんはそうではなく、実際に工事に携わる現場のスタッフを大事にしていたのでしょう。もちろん暫くしてから、再び当時解雇してしまったスタッフを呼び戻したそうです。

また、爆発事故によって多くの命が失われたそうですが、その際にに立てられた「慰霊碑」は日本人や台湾人といった民族の区別を一切採らず、全員の名前を「あいうえお順」で記名するという、ここでもまた八田さんらしい、誰もを分け隔てなく対等と考えていたことがうかがえます。きっと現場は大変ながらも士気高く取り組まれていたのではないでしょうか。

実際に「烏山頭水庫」を訪ねてみた

烏山頭ダム周辺は「烏山頭水庫風景区」として整備されており、ほとんどの方は自動車で訪れるようです。私は台南駅から台鉄で林鳳営駅まで行き、そこからバスに乗るという方法でしたので、公園内を徒歩で移動したのですが・・・とにかく広い!!ただ、時期的にそれほど湿気がなかったようで、木陰に入ると割と涼しかったことが功を奏したように思います。真夏は・・・ちょっと避けた方が良いかもしれません。ちなみにこの烏山頭水庫風景区ですが、入り口で入場料を払うのですが、係の方に「バスで来たの?」と(多分)聞かれ、そうだと答えると、入場料が安くなりました。

今回のハイライトは八田與一さんの銅像!

やっぱりここを訪れるきっかけとなったのは八田與一さんという方を知り、そこから烏山頭ダムを知ったこともあり、今でも台湾の方々に親しまれているという八田與一さんにお会いしたいということが一番の目的でした。ですので、まずはダムを見渡せる景色の良い場所にある、八田與一さんの銅像に向かいました(銅像の写真はすでに紹介してあります)。たしかにその場所からはダムを見渡すことが出来、これからもずっと八田さんがダムを見守っていらっしゃるような作りになっていました。

今でも現役!当時の技術がいかに優れていたかが分かる!

さらに公園内にはもちろんダムに関する設備が点在しているわけですが、建設当時のものが今でも現役で使われている、というものも多数ありました。老朽化しているものを仕方なく使っている・・・ということではなく、今でも機能的であるということや、次号機のバックアップとして今でも使われているものなど、こういうところにも「ものづくりニッポン」という古き良き
伝統が活かされているようで、なんとなく鼻が高くなった気持ちでしたね。


ラストは八田さんのお住まいを訪ねてみた話と夫婦愛について

烏山頭水庫風景区の隣(といっても結構歩きます)には「八田與一記念公園」があり、ここには八田さんがダム建設時に住んでいらしたご自宅が復元されていました。ここでご家族そろって暮らしていたことが偲ばれ、温かい気持ちになったと同時に、奥様(外代樹さん)の銅像もあり、目頭が熱くなってしまいました。

というのも、実は八田さんはダム建設の後も精力的に活躍されていたのですが、大東亜戦争中にフィリピンの灌漑建設のために乗船していた船がアメリカ軍によって撃沈されて命を落としてしまうという非常に痛ましい最期を遂げてしまうのです。そしてそれを追うようにして奥様もダムに身を投げたそうです(この日は丁度ダムにとっての記念する日だったそうです)。

実は丁度、奥様の外代樹さんに関する本を読んだばかりだったので、なおのことお二人の仲睦まじい様子、さらには外代樹さんが(もちろん與一さんもですが)ご主人である與一さんを深く愛していらっしゃる様子が描かれており、特に與一さんを海難事故で亡くされてからは、めっきり精気を失い、悲しみにくれていたということも書かれており、そんな本を読んだ直後だったこともあり、外代樹さんの銅像だけでなく、家族写真を見たときには・・・本当に言葉がないと言いますか、ただただ悲しかったですね。

まとめ~日本人が知っておくべきエピソード

八田さんについては学校教育では触れられたことがないように思います(もしかしたら、私が授業を聞いていなかっただけかもしれませんが・・・汗)。小学校でも中学校でも、大正昭和あたりはあまり時間がなくて、駆け足で教科書に触れる程度で終わってしまったような記憶しかありません。

こうして大人になって、なんとなくアンテナを広げてようやく入手したのはつい最近という、なんともお恥ずかしい話です。とはいえ、まあまあ「いい歳」でもあるので、こうして思い立ったら即行動できたことを考えると、歳を重ねることは決してネガティブなだけではないし、いくつになっても「学ぶ」ということは自分のためになることだな、と改めて思いました。ま、言うならば「大人の校外学習」って感じですね。

光と影、賛否両論あるとは思いますが、日本による台湾統治は決して悪いことだけだったのではなく、こうして今でも台湾の人々の生活に役立っているという様子を目の当たりにし、しかもそれを私たちの先祖が作った、となるとやっぱり誇らしい気持ちになりますし、ちょっと近年、国力の低下だったり、国内もなんだか元気のない話が多いですが、先輩たちの活躍を振り返り、「自分も何かせねば!」という気持ちにはなりましたね。ま、もちろんダムは造れませんけどね。それでも「気概」は持っていたいと思いました。




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