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夢を叶えて幸せになったはずが、気づけば無職になっていた

──── 夢を失った日、母に電話をした。涙が止まらなかった。

24歳、小学生の頃から抱いていた夢を叶えた。

卒業文集に書いた「科学者になる」という夢だ。

それまでの努力が実り、幸運にも恵まれて、夢を叶えることができた。正直、そんな自分が誇らしかった。

それから2年、ぼくは無職になっていた。

自分の支えとなる夢を失って、真っ暗闇に放り出されて、自分がどこにいるかが分からなくなった。そんな環境から一刻も早く離れたくて、夜逃げをするかのように引っ越した。

夢を叶えて幸せになったはずが、気づけば無職になっていた。

今は会社を設立し、顧客と二人三脚で事業の成功だけを考える日々がたまらなく充実している。なぜならば、新しい夢を見つけることができたからだ。

この記事は、小学生の頃から抱いていた夢を失い逃げ腰だったぼくが、ゼロから転職して人の夢に寄り添うことで新しい夢を見つけることができた日々の備忘録だ。

エンジニアとして受託開発の立ち上げをリードし、開発だけでなく、営業から納品まですべての工程に携わった。2023年11月には法人化に至ったので、この機会に言葉にして残す。

この記事が、まだ見ぬ誰かに勇気や希望を与えるきっかけになれば幸いだ。

物心ついたときから夢があった。

物心ついたときから将来の夢は科学者だった。自然と、気づいたらそう思っていた。

父は芸能人も足繁く通う名店の板前で、そんな父に憧れて「板前も良いかも」と思ったこともあったが、それでも科学者になる夢は変わらない。

その頃のぼくは本を読むのも好きで、「図解雑学 元素」のような小難しい本を母にねだっていた。母は「こんなの読んで分かるんか?」と言いながらも喜んで買ってくれた。

こうして、ますます夢への思いは強くなっていった。

人生初の小さな挫折

読書が好きなこともあり、小学校、中学校と成績優秀だったぼくは、家から一番近いからという理由で進学先の高校を選んだ。

それなりに偏差値が高い進学校だったけど、剣道部の練習で毎日へとへとになってたぼくは徐々に成績が悪くなっていく。

一度授業についていけなくなると、あっという間に赤点ギリギリの成績まで落ち、勉強に対する自信を無くした。

子どもの頃は本が好きで読んでただけだったから、好きでもない教科書を読むのは苦痛以外の何物でもない。

進路を考える時期を迎えたとき、同級生が大学受験に向けて勉強に打ち込むのを見て、「勉強したくない…今からやっても合格できるわけがない…」と卑屈になることも。

それでも夢は諦められなかったし、浪人するお金も無かったので、試験なしで入れる専門学校に入学することを決意した。

専門学校への進学を選んだことで、同級生からはバカにされたが、「どうせ行くなら、実践的に学べる学校がいいでしょ」なんて、周りに言い訳した。

運が味方し、夢を叶えた。

ぼくが通っていた専門学校には長期インターンシップの制度があった。3年生の後期から最長で1年6ヶ月、学校での授業の代わりに企業や研究所で実際のプロジェクトに携わることになる。

ぼくは都内の研究所でインターンに参加することになった。月曜日は学校で授業、火曜日から金曜日はインターン、土日はアルバイト、とにかく忙しい日々だった。

多忙ではあるものの、ぼくにとってこのインターン期間は楽しくて仕方がなかった。辛いなんて1ミリも思わなかった。やっぱり自分にとって研究者は天職だと感じた。

インターンでまず任されたのは、同じことを何百回と繰り返すだけの単純作業だった。

それでも、研究者になれた気がして、仕事を任せてもらえるのが嬉しくて、実験に没頭していく。

狂ったように仕事をこなし、とにかく仕事をくださいと言うインターン生に、任せる仕事が無くなって困った上司は、数年間凍結されていたプロジェクトの再始動を命じた。

そんな働く意欲を評価され、卒業するタイミングでたまたま採用枠が空いたことをきっかけに、ぼくは専門学校の卒業後すぐに職員として採用されることになった。

通常、研究者になるには4年の大学を卒業して大学院に進学し、2年の修士課程、4年の博士課程を修了し、その後「ポスドク」と呼ばれる期限付きの研究者を経て…というのが王道。本来は気の遠くなるような時間がかかる。

それを、専門学校を卒業したばかりで採用されるなんてことは、異例も異例。このときは、本当に運が味方をしてくれた。

こうして、ぼくは予想していなかった形で、卒業文集に書いた「科学者になる」という夢が、現実となった。

夢を叶えて感じた、違和感。

ぼくの研究テーマは、病気の原因になる遺伝子を見つけることだった。何十万、何百万の遺伝子から、正解を探し当てる研究。順遺伝学と呼ばれる分野で、よく宝探しに例えられた。広大な砂漠から一粒のダイヤモンドを探し当てるようなハードモードだったけど、すごく楽しくて、大好きだった。

一緒に働く人にも恵まれたおかげで、毎日が楽しい。夢を叶えたという高揚感で、忙しい日々でも難なく過ごすことができる。

一方で、自分の中に小さな違和感のようなものが生まれてきていた。

今思えば、この違和感は「子どもの頃の夢」と「大人になって仕事に求めるもの」がずれていることが原因だったようだ。

子どもの頃に思い描いてたのは、あふれ出る好奇心と探究心にしたがって、自由に学問を追求する姿。大人になって知ったのは、短期間の成果を求められ、限られた研究費に苦悩する姿。

子どもの頃は親がいて、生活の面倒を見てくれた。ぼくの夢がどれぐらい安定していて、どれぐらい稼げるかを考える必要はなかった。大人になったぼくは、この仕事でどこまで到達できるのか、家族を養っていけるのか、現実を直視しなければならなかった。

違和感は時間が経つごとにどんどん大きくなる。それに対抗するように「夢を叶えたんだから幸せなはずだ」という声もまた大きくなる。

「夢を叶えたんだから幸せなはずだ」
「夢を叶えたんだから幸せなはずだ」
「夢を叶えたんだから幸せなはずだ」

誰の声かも分からないその声で、自分が感じた違和感に蓋をする。

そうしているうちに、徐々にぼくは身動きが取れなくなっていった。

そんなぼくに異変が現れた。仕事中に、短い気絶を繰り返すようになってしまった。

勤務中に、突如意識が飛んで、気がついたら数秒経っている、なんてことが当時は一日に十回以上起きていた。

もう気分は落ち込みきっていて、あんなに大好きだった仕事が嫌で嫌で、毎日通勤するのが怖かった。

逃げ出すように夢を捨て、無職になる

そこに追い打ちをかけたのが、新型コロナウィルスだった。というのも、ぼくが勤めていた研究所は病院に併設されていて、病院では当時流行の兆しを見せていた新型コロナウィルスに最前線で対応していた。

国内における感染者はまだ数人。しかし未知のウィルスへの恐怖で、感染者への批判がヒートアップしていく。

研究所の入り口に何十台ものテレビカメラが集まっている日もあった。医療従事者や感染症を専門とする先生方が、今こそ世の中に貢献しようと奮闘しているこの状況で、ぼくが感染して迷惑をかけるわけにはいかない…。感じたことのないプレッシャーから休日の外出も控えざるを得なかった。

まるでドミノ倒しのように、精神が音を立てて崩れていった。

夜もほとんど寝ることができず、仕事も思うように進められない。そして、ぼくの頭に人生で初めて「死」がよぎるようになった。

死ぬことが選択肢に入ってきたとき、ぼくは限界を感じ、夢を捨て、無職になった。

一刻も早く離れたくて、夜逃げのように引っ越しをした。自分をずっと支えてきた夢を失って、真っ暗闇に放り出されて、自分がどこにいるかが分からなくなった。

夢を失った日、母に電話をした。涙が止まらなかった。

新しい居場所を探す

自分がどこにいるか分からないまま、色々な仕事をした。警備員や訪問販売、実験教室の先生、らーめん屋。

そんな中でずっと続いていることが「Bubble(バブル)」だった。

Bubbleとは要するに、みんなのスマホに入っているようなアプリを作るツールだ。

具体的にはマッチングサイトや業務システムなど、幅広いジャンルのソフトウェアが開発できるツールで、当時日本で少しずつ認知されはじめていた。

研究データの解析でプログラミングをしたことはあったけど、アプリを作ったことはなかった。何となくアプリ開発がしてみたくて、最初はRuby on Railsという言語を勉強したけど、これにはもう時間がかかって、全然開発が進まない。

「もっと効率よく開発ができるものはないのか!?」と探していたときに出会ったのが、Bubbleだった。

まだ日本ではあまり知られていないツールだったけど、すでに海外ではかなり認知されていて、英語の情報はたくさんあった。研究で英語の論文を読んでたから、海外のBubble情報を集めるのに苦労はしなかった。

コードを書いてると、何をつくっているのか、視覚的にいまいちピンとこないけど、Bubbleはアプリが出来上がっていく様子を目で見て実感できた。手触り感というか、今まさにつくっているという感じがした。

さくさくと開発できることが、自分の思い通りにアプリができることが、あまりに楽しくて、時間さえあれば何かをつくっていた。

真っ暗闇の中を手探りするようにフリーターをしていた1年間、過ごした日々を振り返ればBubbleを触らない日は無かった。

これだ!

ぼくは新たな居場所を見つけた。

Bubbleエンジニアに転身

「こんなにBubbleが面白いなら、Bubbleを仕事にしてみよう」

そう考えたぼくは、Bubbleを使った受託開発事業を立ち上げようとしている会社を見つけて、Bubbleエンジニアとして入社。

受託開発の立ち上げをリードし、開発だけでなく、営業から納品まですべての工程に携わった。

様々な顧客から開発を請け負ったが、特に新規事業系はたまらなく楽しい。顧客と二人三脚で進みながら、夢を叶えるための挑戦を、人生のストーリーを特等席で見ている様な感覚だ。

「この仕事で、もっと多くの事業をサポートできるようになりたい」

子どもの頃からの夢を失ったぼくに、新たな夢が芽生えた。

大人になって芽生えた夢は、ひと旗あげようと運命を切り開く起業家のとなりで、彼らが全力疾走できるようにサポートする姿。

この夢はぼくに、あふれ出る好奇心と探究心を与えてくれるだけでなく、経済的な自立とキャリアの広がりも見せてくれた。

2023年11月、会社設立

2023年11月、Unleash株式会社を設立した。Bubbleに特化した受託開発が主な事業。

「Unleash(あんりーしゅ)」は「解き放つ」という意味をもっている。Bubble開発が世界中の起業家の可能性を解放していく様子から、着想を得た。

ぼくらは「事業に正直であれ」という言葉を大事にしている。

顧客の事業を理解し、顧客の目線で最善の方法を考える。プロダクトのためにプロダクトをつくるのではなく、事業のためにプロダクトをつくる。事業の成功を目的として頭をひねる。

開発が時期尚早であれば、開発をしないという提案もするし、Bubbleが不向きであれば、身を引く。もちろん役に立てると思えば、全力でサポートする。

ぼくはこの会社でたくさんの夢のとなりに立ちたい。Bubble開発ならそれができる。

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事業に正直な開発チームが欲しいという方は、声を掛けてください。

Bubbleを詳しく知りたい!という方も、このnoteへの感想を伝えたい!という方も、ぜひ一度お話ししましょう。

こちらからメールをください。
a-imaike@unleash-inc.jp


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