Note 111: 「一度きりの大泉の話」を読んだ

話題の本。

少女マンガの枠を超え、現代マンガを代表する巨匠の1人である萩尾望都さんが、伝説的に語られている「花の24年組」「大泉サロン」について、重い口を開いた、というもの。
「大泉サロン」とは、かつて萩尾さんが少女マンガのもう1人の雄である竹宮惠子さんと共同生活していたアパートに対して、一部の作家、ファンが付けた名前であって、そこに山岸涼子さん、佐藤史生さん、ささやななえこさん(ささやななえさんが改名)、山田ミネコさんなどが集っていたことから、少女マンガ版のトキワ荘として語り継がれている。
しかし、萩尾・竹宮の共同生活は2年ほどのことであり、最初の契約終了に伴って終止符が打たれた。
もう50年ほど前のことである。

なぜこのことについて、萩尾さんが、それもエッセイ本と言う形で著したのか。
それは数年前に竹宮さんが著した自伝的エッセイ「少年の名はジルベール」に発端があるらしい。
その中では、「大泉サロン」に集う「24年組」が起こした「少女マンガ革命」が、若干美化された形で描かれていて、それを回顧する企画(テレビドラマ化するとか、竹宮・萩尾の対談をさせるとか)が数多く萩尾さんとマネージャーの城章子さんの元に寄せられていたらしい。

ところが、萩尾さんの中では、認識が違った。
まず大泉サロンがトキワ荘にならぶ少女マンガ家の梁山泊というわけではなかったし、24年組というくくりもおかしい。(美内すずえは入るのか? 里中満智子は入るのか?)

そして、共同生活の終焉の後に、萩尾さんを竹宮さんから決定的に決別させる事件があった。
それ以来、萩尾さんは竹宮さんの作品を読むことが出来なくなり、50年にわたって竹宮さんのことは封印された存在になり、献本された「少年の名は……」も封筒を開くことが出来ず、城さんに読んでもらった。

それを今さら美化されて、美しい思い出のように盛り上げられても困るし、いろいろな人に回顧企画に協力するように繰り返し依頼されても困る。
そのことが、異例のエッセイ本という形式で、萩尾さんの重い口を開かせることになったという。

以下はブログ筆者の解釈による要約、ネタバレです。

本書は、萩尾さんにしては珍しい文章の本である。
(多くの未発表スケッチや、イケダ・イクミ・イン・ホッカイドー原作のマンガ「ハワードさんの新聞広告」の再録が入っている。この池田いくみさんがマンガ家を目指しながら挫折したショッキングな経緯、萩尾さんが原作者名をはっきり書き、印税を按分することにこだわったことも注目したい)
最初は、映画監督の佐藤嗣麻子さんが話を聞いて文字起こしし、萩尾さんが補筆するという工程だったが、結局全面的に改稿したらしい。

竹宮さんとの決別を説明すること、「大泉サロン」という幻想を取り払うことが目的の1冊であるが、萩尾さんがマンガ家を志して上京し、作品を世に出した経緯も綴られている。
「大泉サロン」(<=便利なのでこの通称をカッコ付きで使うけど)に出入りする群雄割拠する作家たちの人間群像も面白いし、編集者とのやり取りも面白い。
萩尾さんはクールなユーモリストであって、ちょこちょこした会話が本当に面白い。
こんな重厚で悲壮な話がこんなに楽しく読めていいのか、という気がする。
でも、商品として売る本としては、です・ます調が気になるし、「そんな〜〜」みたいな波線の多用も気になる。面白いけど。
感心したのは、地の文と会話文の間に自分の心の声を会話調で入れていること。ここまで書いていて気づいたが、この効果を出すためにあえて地の文をです・ますにしたのかもしれない。
とりあえず、どうしようもなく楽しく読める本である。
そして、あの頃、「少女マンガのクォリティがなぜか急激に上がった時期」のバックステージが分かって興味深い。

萩尾さんと「少女マンガブーム」の思い出

ぼくは世代的に「急に男性が少女マンガを読み出した時代」に当たる。
急に少女マンガが面白くなった。
読んでいたのはもっぱら萩尾さんがダントツで、萩尾さんといえばなんと言っても「11人いる!」「続・11人いる!(これが最高!)」である。

あとは山岸涼子さんで、山岸さんと言えばなんと言っても「日出処の天子」である。

最近では山岸さんというととにかくコワイ漫画というイメージがついてしまったが、受験生コメディの「メタモルフォシス伝」も良かった。
これなんか今の格差社会とインテリの苦悩を先取りしたようなマンガである。

あと、「一度きりの……」ではなぜか少ししか出てこない大島弓子さんである。

(ニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」は難しくて読み通せないけど、大島弓子さんがマンガ化してくれたら面白いだろう、なんて書いている)

こういう作家の作品を男性が堂々と読む習慣が定着したのは、時代的には「LaLa」が創刊した頃だったと記憶している。

当時も、とかく「男のくせに少女マンガなんか読んで……」と言われた。
ぼく自身も「男なのに少女マンガなんか読んでいる自分」を露悪的に標榜していて、変なやつである自分を気に入ってた。
今で言うオタクの走りである。
でも、冷静になって考えたら、当時少女マンガが面白かったのは、単純に作品のクォリティが高かったからだ。
いつまでも巨人軍が出てくるスポ根マンガとか読んでいる場合ではないので、「もっと他のものを読みたい……」とたどり着いたのが少女マンガだったということだ。

「LaLa」創刊号と言えば「スケバン刑事」の和田慎二さんが新選組の話を描いていたりして(これが面白かった)、あんまり少女マンガだからどう、とは思ってなかったと思う。
萩尾さんは光瀬龍さんの原作を得て「百億の昼と千億の夜」を少年チャンピオンに描いた。

ちょっと、10巻ぐらいの話を2巻にまとめたような感じで、未消化な感じがしたけど、いずれにしても、少女マンガだから、少年マンガだから、というボーダーが取り払われる時代の象徴的な作品である。

話はだいぶ脱線するけど、推理小説の世界では、パトリシア・ハイスミスやマーガレット・ミラー、ルース・レンデルのような女性作家が描く心理ミステリーが、江戸川乱歩が雑誌「宝石」を編集していた時代から愛好されていて、今の湊かなえさんのようなイヤミスにつながる系譜になっている。

音楽の世界はもちろん、キャロル・キングやジョニ・ミッチェル、矢野顕子さんのような女性の音楽を男性が聞くのも当然である。

マンガの世界はそれに比べると、まだ男性誌、女性誌という区分が残っているが、昔よりも垣根は低くなっていると思う。

最後に竹宮さんだが、なんと言っても「風と木の詩」が有名である。

いわゆる「少年愛」「少年愛の美学」をテーマにした作品であって、現在まで続くボーイズ・ラブ、BLに続く系譜の端緒となった作品である。
ぼくはちょっと、そこがよく分からなくて、けっきょく読まなかった。
この話はあとで書く。
「地球へ……」など、SFの作品もあるが、読んでいない。

決別の理由と「少年愛」幻想

さて「一度きりの大泉の話」に戻る。
萩尾さんが竹宮さんと決定的に決別し、萩尾さんが竹宮さんの作品を一切読めなくなった事件とは何か。
この本に興味がある人は、ぼくなんかの文章でネタバレしない方がいいと思う。
読み終わったらまたここに戻って来てください。

ネタバレ注意

警告したからな!

萩尾さんを竹宮さんから決別させた事件とは、竹宮さんと増山さんが、「11月のギムナジウム」「鳥の巣」「トーマの心臓」という少年を題材にした作品が、竹宮さんが創造しようとした少年愛をテーマにした「風と木の詩」を剽窃したものではないか、と非難したことである。

まずは2人から口頭で詰問が行われ、そのあと竹宮さんが手紙を送り「この間の話は忘れて欲しい」「でももう増山さんのマンションには来ないで欲しい」「私のクロッキーブックを読まないで欲しい」みたいな不気味なことが綿々と書かれていたそうだ。

その背景として、萩尾さんと竹宮さん、そして増山さんとの関係において大きな問題であったのは「少年愛」「少年愛の美学」と言うものの解釈をめぐる齟齬のようだ。

もとより増山さんは自らマンガを描かず、もともとは「大泉サロン」全員のアドバイザーであり批評者という立場であったが、萩尾さんが共同生活を解消する直前までは竹宮さんと双子のようにくっついていて、竹宮さんは「サロン」を離れて増山さんのマンションに入り浸っていた。萩尾さんとの決別後、竹宮さんのプロデューサーに正式に就任した。

増山さんはもともと「少年愛」「少年愛の美学」に取り憑かれていて、「サロン」を訪れる作家たちにそれを唱導、伝道しようとしていた。

もっとも、「サロン」を訪れる作家の中にも、そういう嗜好の人が多くて、取り立てて増山さんが変わった人というわけではない。
昔から、アート志向の少女マンガ家の間には少年愛的なものを好む傾向があって、それを理論化・推進する増山さんがオピニオン・リーダー的な存在だったようだ。
青池保子さん、木原敏江さんなんかもその傾向がある。
魔夜峰央さんも、多少パロディというかメタ的な批評眼があるが、このムーブメント(少女マンガの中の少年愛の盛り上がり)から出てきた作家だ。

「一度きりの……」によると、増山さんには、自分のアイディアを美しい絵を描く才能のあるマンガ家が具現化するが、自分の名前はクレジットせず、その作品が大ヒットしたあとに「あの作品は自分の思いつきだった」と言いたい、という願望があったと言う。
その願望の奇妙さ、危うさに、萩尾さんは初期から気づいていた。

増山さんは、美しい絵を描く萩尾さんに(もともと萩尾さんと増山さんは文通仲間だった)、自分の少年愛の世界を描いて欲しかったと思しいが、彼女が最終的に描いた「11月のギムナジウム」などを見て、「これは少年愛ではない!」と批評したりしていたらしい。

竹宮さんはそれに対して、増山さんの少年愛の世界に傾倒し、彼女の薫陶を得て「風と木の詩」の構想を膨らませていった。
クロッキーブックに描かれた「風と木の詩」のラフを萩尾さんは読んで、少年ジルベールが次々に教師たちを誘惑するのを見て「この少年は寂しくて、愛を求めているのね?」と聞くと竹宮さんは「違う、そんな陳腐な話ではない、彼はこういうのが好きなのだ」と言う。
それを聞いて萩尾さんは「自分には理解できない、新しい、難しい話」だと思ったらしい。

そう、萩尾さんは「少年愛」というものが理解できない、と書いているのだ。
これはぼくにも意外だった。
しょうじきぼくも、「ポーの一族」や「トーマの心臓」は、後年の「残酷な神が支配する」に続く男性同士の性愛の世界を、「風と木の詩」に比べるとずいぶん淡く、未分化ではあるけれども、描いたものであると思っていた。

当時の読者はそう思ってたんじゃないだろうか。
それは山岸涼子さんの「日出処の天子」や、それこそ青池さん、木原さん、魔夜さんの作品にも通底するものであると思っていた。

ただ「少年愛は分からない」という気持ちは、ぼくも分かるような気がする。萩尾さんの思いとは違うかもしれないが……。

少年愛の分からなさ、危うさ

このパートは一人のオッサン読者であるぼくの思いであって、萩尾さんの「一度きりの……」には関係ない話。

ぼくが「風と木の詩」をなんとなく読めなかったのは、この話は、いまどきの用語法を使うと、女性読者によって性的に消費される商品ではないかと感じたからだ。

いま、フェミニズムの人によって、日本のオタク男性が好む「ロリコンマンガ」がとかく糾弾されている。
ぼくは言論規制は絶対反対派だが、女性が「ロリコンマンガ」を気持ち悪く思う気持ちはすごく良く分かる。
そんな、オタク男性にとって都合のいい「少女」は、いねーよ、と思うのである。
ぼくはオタク男性の1人だが、そういう自分のダメなところは、じゅうじゅう分かっている。

ロリコンマンガは、80年代に吾妻ひでおさんなどを筆頭に起こったムーブメントであって、ぼくはこっちも世代的にドハマリした。

ロリコンマンガに出てくる「少女」は、ごく簡単に言ってしまうと、現実の「女性」から、オタク男性にとって都合の悪い、社会的、肉体的なものを除去した、都合のいい記号としての少女である。
それがオタク男性によって性的に消費され、そういう「少女」こそが女性の理想像のようになってしまうのは、どうしようもなく気持ち悪いし、現実の女性の否定である。
だから、ロリコンマンガはこっそり読むべきだと思うし、批判されてもしょうがないと思う。

さて、ひるがえってBLに出てくる美少年も、女性読者にとって都合のいい存在なのではないだろうか。
現実の、醜い、怖い、偉そうで間抜けな男性から、イヤな部分を除去した、理想的な記号として「美少年」が存在し、その「美少年」同志が絡む光景は、ただただ、美しい。
「風と木の詩」は元祖であるから芸術的な価値は高いと思うけど(ぼくは読んでないから知らないけど)、「風と木の詩」およびそれに続くBL作品は、そういう女性読者の「願望」を充足する存在ではないか、と思うのである。

現在は性的少数者や性の多様性の問題が話題になっているが、これとBLは直接の関係はない。
もしかしたら、もともと男性らしくなりたくないと思っていた元男性を力づけるものとして機能した可能性はある。
江口寿史さんの「ストップ!!ひばりくん!」がそういう読者を力づけた、という話もある。

でもBL作品に嫌悪感を示す性的少数派の読者もいると思う。
そこはここで述べたいことではない。

ここで述べたいことは、BL作品には、芸術以外の、本能に奉仕する面も、どうしようもなくあるのではないだろうかということだ。
マルキ・ド・サドの作品のように、性的な意味を持つ芸術作品もあるから、「性的に消費される機能があるから悪い」「芸術性がない」と言うものではないが、「少年愛の美学」(=良きもの)とくくってしまうのは、危うい言葉だと思う。

とりあえず、ジルベールみたいな少年は、いない。
それは吾妻ひでおさんの「スクラップ学園」に出てくるミャアちゃんがいないのと同じことである。

「少年愛」マンガの受け止め

ぼくぐらいリベラルな人間でも違和感を感じてしまう少年愛作品だから、1976年の編集者や一般読者の抵抗は大きかった。
でも、だからこそ、「風と木の詩」はセンセーショナルであり、社会現象になった。

ぼくはけっきょく、このブログを書くために「少年の名はジルベール」も読んでしまった。
こっちも面白かった。

「一度きりの……」と「少年の名は……」の面白い共通点は、週刊少女コミックの副編集長であった山本順也さん(「少年の名は……」の中ではYさん)が、面白いオッサンとして出てくることである。
彼は「少女マンガだから女の子が主役で当たり前」「女の子は男の子と恋愛するもの」という古風な考えを持っていて、竹宮さんの少年愛作品、そして「風と木の詩」の掲載には最後まで抵抗した。
想像だが、そしてこの想像は当たっていると思うのだが、1976年のオッサンが、濃厚な少年愛マンガを見せられるのは相当精神的にキツかったと思われる。
それは、彼の旧弊な価値観にそぐうものではなかった、彼の感覚が古かったと言ってしまうことも出来るが、彼にも「こいつ(ジルベール)みたいな美少年とか、いねーよ」という感覚、そして性的に消費される対象としてのBLに対する心理的抵抗があったのではないだろうか。
それを、「短編原稿の差し替え」という強行手段で最初の少年愛短編「雪と星と天使と…」を世に出した竹宮さんはスゴいし、「風と木の詩」を最終的には長期連載させた山本さんもスゴい。

で、面白いことに、萩尾さんの「11月のギムナジウム」も「ポーの一族」も「トーマの心臓」も、山本さんや少女コミック編集部の最初のウケはあまり良くなかった。
これもやっぱり、オッサン編集部や世間一般の受け止めが悪かったということだろう。
また「トーマの心臓」が「風と木の詩」の剽窃ではないかという風評が流れたり、××女史と言う人が両方の作家の原作者であると虚言をいいふらしていたという事件もあったらしい。
いまになって「トーマの心臓」と「風と木の詩」を並べて、男の子がくっついている似たような作品と言う人はいないと思うけど、当時はそういう受け止めが、どうしようもなくされていたと思う。

あらためて「一度きりの大泉の話」について

ということで、ぼくは「少年の名はジルベール」も読んでしまった。
こっちは完全な自伝であり、時代を切り開く革命児の爽快な冒険譚である。
共同生活をしたアパートを「大泉サロン」と言い切っているし最初から「トキワ荘」になぞらえていて、このアパートで少女マンガ革命を起こす、と言い切っている。
そしてその革命は成功した。それは紛れもない事実だ。

「少年の名は……」の中で竹宮さんは、萩尾さんのことを一言も悪くは言っていないし、剽窃疑惑のことも言っていない。
(反対に、「トーマの心臓」のことはたった1回、他の作品と並べてタイトルだけしか出てこない。)
共同生活解消の理由は、萩尾さんの才能への嫉妬と芽が出ない自分への焦りによって神経症になったからみたいな表現がされている。

それは、萩尾さんにとって真実ではなかったかもしれないけど、とりあえず萩尾さんにとって悪いことは書かれていない。
それこそ商売っ気があれば、「大泉サロン」の物語に乗っかって楽しい思いをすることも出来たかもしれない。

しかし、萩尾さんにはそれができないし、そんな幻想が許せなかった。
それは、彼女や城さんの言うように「大泉サロンという架空の幻想に基づいて話を持ちかけられるのがイヤだったこと」もあったかもしれないが、第一の原因は「風と木の詩」とまったく異なる作品である「トーマの心臓」がその剽窃であると言われたことであろう。
これは竹宮さんと萩尾さん、増山さんしか知らないことで、黙っていれば分からないことだが、萩尾さんはどうしても公開する必要があった。
そこは萩尾さんの内面に属する問題であるが、ぼくも「黙っていた方が得なんじゃないかな……」と思わないでもない。

最初の方で書かれている、増山さんの「自分はアイディアを提供するけど、原作者クレジットはしなくていい」みたいな謎めいた願望が、萩尾さんにはどうしても解けない謎であり、論理的な人間である彼女はどうしてもそこが気持ち悪かったのか。

ということで、この本は面白い自伝のような、歴史の記録のような、私信のような、告発のような、改めての決別通知のような、不思議な本である。
そのすべてなのかもしれない。
文学史上はそういう本はある。
本の終章は感情が隠せなくなり「大泉の企画は私抜きでおやりくださいませ」「私は協力はできません」「漫画界の発展をお祈りいたします」という手紙口調で終わっている。
これって本なのか?

しかし、どうしようもなく面白い本である。
竹宮さんから手紙を突きつけられて、神経性眼病を患った萩尾さんが、城さんに「目が見えないから、小松左京さんの『日本沈没』を読んで」と言うやりとりは爆笑した。

あと、映画青年であった山本さんが萩尾さんにエイゼンシュタインの魅力を教え込もうとするところも面白かった。

「山岸凉子先生、イタコになる」という素っ頓狂なタイトルの章まである。(これは笑い話ではないが)

萩尾さんは、そう言われるのがうれしいかどうか分からないが、ユーモア・エッセイの書き手としての才能も相当のものだと思う。
もっと書かれていない時代のことを読みたい。

(この項おわり)

会社員兼業ライターの深沢千尋です。いろいろ綴っていきますのでよろしくです。FaceBook、Twitterもやってますのでからんでください。 https://www.amazon.co.jp/l/B005CI82FA