宇野常寛

宇野常寛 (評論家/「PLANETS」編集長) 連絡先→ wakusei2ndあっとy…

宇野常寛

宇野常寛 (評論家/「PLANETS」編集長) 連絡先→ wakusei2ndあっとyahoo.co.jp 070-6449-6489 著書に『ゼロ年代の想像力』『リトル・ピープルの時代』 『母性のディストピア』など。

マガジン

  • u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)

    宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草稿や没原稿、なども載せていく予定。SNSでは書く気にならないことを、実はかなりマメに更新しています。月に数万字は余裕で更新しているので、かなりお得です。

最近の記事

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「個人的なノートブック」を再開します。

突然ですが、個人のノートブック(定期購読マガジン)を再開します。3年ほど前に、実は少しだけやっていたことがあるのだけれど、そのときは手が回らなくて(ウェブマガジン「遅いインターネット」)の立ち上げの時期でした)数ヶ月で閉じちゃいました。でも今回はしっかり続けたいと思っています。 なぜ、このタイミングで再開するのか……というと、書きたくなったからとしか言いようがありません。この4年ほど、僕はどちらかといえば編集者としての仕事ーー「遅いインターネット」「モノノメ」などーーに注力

    • これからの社会は「承認」のゆりかごを充実させるか、「評価」のハードルを下げるかの二択になる(そして僕は後者のほうがいいと考える)話

      さて、今日はちょっと変わった話から始めたい。少し前に國分功一郎さんの『中動態の世界』について、書いた。 要するにそこで僕は、彼の述べる『中動態の世界』とは、意外とこのSNSプラットフォーム中心の社会に近く、そして現行の世界(能動態/受動態の世界で記述される世界)と新しい「中動態の世界」がうまく噛み合っていないのではないか、ということを書いたのだ。 たとえば『テラスハウス』事件では、視聴者とメディア(フジテレビ)とプラットフォーム(Instagramと旧Twitter)が実

      • コモンズと共同体をデカップリングする可能性を考える

         少しバタバタしていて、間が空いてしまったが、今日はコモンズと共同体について考えたい。宇沢弘文からオストロムまで、そして媒体やイベントでソーシャルグッドな「いい話」をして、あまりものを深く考えていないがそう見られたい企業や観客を騙して金と権威を手にするタイプの「知識人」たちまでが口を揃えて、資本主義のアップデートのためには市場の外部に「コモンズ」が必要であることを、そしてそのコモンズは「共同体」の自治により担われるべきだと主張する。  しかし、僕はこの前半には同意するが後半

        • 「多様性」をマジックワードにせず、しっかり機能させるために一番大切なものとはなにか

           今日は「多様性」という言葉について考えてみたい。この言葉は今日においてほとんど「正義」という言葉と同義になっている。多様性が低い、という言葉を僕たちは明確に「ダメ出し」として使っているし、しばしば伝家の宝刀のようにこの言葉を振りかざされる。ただ、僕はこの言葉のイメージはそれこそ「多様化」したほうがいいと思っている。というか、用いるときに少し気をつけたほうがいいと思うのだ。  たとえばあるところに、20代の女性、30代の男性、40代の男性、50代の女性がいたとする。足りないと

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        「個人的なノートブック」を再開します。

        • これからの社会は「承認」のゆりかごを充実させるか、「評価」のハードルを下げるかの二択になる(そして僕は後者のほうがいいと考える)話

        • コモンズと共同体をデカップリングする可能性を考える

        • 「多様性」をマジックワードにせず、しっかり機能させるために一番大切なものとはなにか

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          ¥980 / 月

        記事

          となりのトトロ2ーーメイとサツキと僕らの民主主義(仮)

           物語の舞台は前作(昭和33年/1958年)から13年後の昭和46年/1971年。母(靖子)が復調したために草壁一家はしばらくしてトトロの森のある村(松郷)を離れ、東京に戻っていた。  当時12歳だった草壁家の長女サツキ(声・日高のり子)は25歳になっていた。成績優秀な優等生のサツキは都内の名門私立大学に進学、折しもそのころは世界中の学生たちが既存の体制に挑戦するために団結していた時代だった。  最初は学生運動とは距離をおいていたサツキだったが、大学教授である父(タツオ)

          となりのトトロ2ーーメイとサツキと僕らの民主主義(仮)

          「文化を生み出す場所」に必要なのはいったい何か、改めて考えてみた話

           今日は「場所」について考えてみたい。それも「文化」が生まれる場所についてだ。随分と抽象的な表現だと思うけれど、同人誌即売会や書店などのトークイベントシリーズのようなものをとりあえず考えてみればいいと思う。この種の「場所」や「イベント」は当然のことだけど「あればなんでもいい」のではないことが、いくつかの実際のものを比較すればすぐに分かると思う。  後の世にいい作品を残す新しい作家を出し続けている場所/イベントもある一方で、ある程度規模が大きくなっても表現難民のたまり場みたいに

          「文化を生み出す場所」に必要なのはいったい何か、改めて考えてみた話

          「性愛」を経由しない対幻想(のポテンシャル)と「共同体ではなくチーム」を僕が選ぶ理由について

          今日は昨日の三宅香帆さんとのトークショーで出た話題を延長して考えてみたい。それは「対幻想」をめぐる議論のことだ。2時間弱の対談で何度かこの話題に触れたのだけれど、たとえば僕は村上春樹が近年同性の「友人」を度々登場させていることに注目する。『ドライブ・マイ・カー』には高槻という青年が登場する。同作が収録されている『女のいない男たち』には、この高槻のように男性主人公の同性の「友人」的な存在が度々登場するのだが、この「友人」はかつての村上春樹の作品に登場した「鼠」や「五反田君」とは

          「性愛」を経由しない対幻想(のポテンシャル)と「共同体ではなくチーム」を僕が選ぶ理由について

          SNSの時代に世界にとって必要な「批評」とはどういうものか、改めて考えてみた話

          今日は昨日に続いて「批評」について考えてみたい。いや、まあ「批評」という言葉を神聖化しても仕方ないのだけれど、僕なりに長くこの仕事をしているので、考えることは多い。たとえば僕は書き手の傍らマイナーな媒体をもう10年以上運営してきているのだけれど、よく考えるのは「僕らみたいな媒体じゃないとできないこと」はなんだろうか、ということなのだ。 最悪なのは「その少し前に流行った本のタームを使って別のもの(自分の好きなもの)を論じる」ような企画(そうすることで「界隈」から認められたいと

          SNSの時代に世界にとって必要な「批評」とはどういうものか、改めて考えてみた話

          出版人の一人としていま「批評」本を売り出すことの意味を考えてみた話

          今日は少し「出版業者」として考えていることを書いてみたい。 今日、三宅香帆さんの新著『娘が母を殺すには?』がPLANETSから、つまり僕のところから発売になった。 三宅さんは、前著の『なぜ働いていると本が読めないのか』が10万部超のベストセラーになっている。版元としては、新刊を出す著者の直前の(それも分野の全く違う)本がベストセラー化するというのはほとんど棚からぼた餅のような展開で、ああ、やっぱり僕の日頃の行いが神にフェアに評価されたのだな……と思うのだけど、その一方でこ

          出版人の一人としていま「批評」本を売り出すことの意味を考えてみた話

          「西新宿ストーカー殺人」から考える「対幻想」と「所有」の問題

          今日は昨日の記事の問題ーー人間は「対幻想」から「自立」できるのかーーの続きを考えたいと思う。 昨日記した通り、1970年代以降のこの国の社会は基本的に団塊世代の転向者たちの生活保守的なメンタリティを中心に形作られてきた。だから政治的には「リベラルな」人たちも、「共同幻想」からの「自立」が基本線だった。イデオロギーが未曾有の大量殺戮を生み出した20世紀の反省としてこれは妥当な態度で、この問題の重要性は今日も失われていないがその一方でこうした「自立」の思想が政治的なニヒリズムと

          「西新宿ストーカー殺人」から考える「対幻想」と「所有」の問題

          人間は「対幻想」から「自立」できるかという問題を戦後史から考える

          気がつけば5月も半ばが近くなってしまった……。明後日5.15は僕たちPLANETSから三宅香帆さんの『娘が母を殺すには』が発売になる。本の内容については、下記の大垣書店のイベントなど出版後にいくつか触れる機会があると思うので、そちらで詳しくコメントしようと思うのだけれど、今日は連休中にこのゲラを読みながら考えたことを書いてみたい。 要するに、この本は母娘間の共依存特有の問題をえぐり出し、その相対化の可能性をフィクションの想像力を駆使して考えている、という内容のものだ。 少

          人間は「対幻想」から「自立」できるかという問題を戦後史から考える

          「仕事で自己実現する」という物語(と、それができない人が暴走しがちな問題)を因数分解して考えた話

          さて、今日は昨日の「働く」ことについての議論の続きだ。 阿部真大は、現代の労働市場の「やりがい搾取」への処方箋に仕事の「役割」、つまり社会的な使命への再評価と啓蒙を主張する。阿部は『職業社会学』を確立した尾高邦雄の「職業の三要素」を「生計の維持」「個性の発揮」「役割の実現」を引用する。「やりがい搾取」とはこのうち「個性の発揮」への欲望を悪用した労働者に対する搾取だというのが、阿倍の位置づけだ。実際にその人でなければ果たせない「個性の発揮」としての仕事はなかなか存在しない。そ

          「仕事で自己実現する」という物語(と、それができない人が暴走しがちな問題)を因数分解して考えた話

          「なぜ人間は〈働く〉ことでカネも承認も社会的な役割も得ようとしてしまうのか」という問題を考える

          昨日は PLANETSCLUB に阿部真大さんをお招きして、現代における「労働」の問題について講義してもらった。阿部さんは2006年に『搾取される若者たち』でバイク便ライダーの労働実態の調査を背景に「自己実現系ワーカホリック」という問題提起をした。これは今で言う「やりがい搾取」という言葉の原型になったもので、阿部さんこそが最初にこの問題を指摘した人物だと言えると思う。 その阿部さんの近年の研究を一般向けにまとめたものが、昨年出版された『会社のなかの「仕事」 社会のなかの「仕

          「なぜ人間は〈働く〉ことでカネも承認も社会的な役割も得ようとしてしまうのか」という問題を考える

          人間は「公共」の場では、むしろ「何者でもない」存在として扱われるべきなのではないか、という話

          昨日、今日と「楽天大学ラボ」の取材で小杉湯の三代目、平松佑介と久しぶりに対談した。小杉湯は90年近く続く高円寺の銭湯で、長く地域の人々に愛されている。それに加えて三代目に代替わりしてからは現役世代をターゲットにしたイベントなどで熱心なリピーターを増やし、都市論の文脈でも注目を浴びている。 僕もコロナ禍の少し前から小杉湯の活動に注目し、度々平松とも対話を続けてきたのだけれどこのタイミングで大きく取り上げたのは無論、原宿にこの春オープンした商業施設「ハラカド」地下への出店のため

          人間は「公共」の場では、むしろ「何者でもない」存在として扱われるべきなのではないか、という話

          「21世紀のアイヒマン」は昭和企業の歯車人間ではなく、むしろ「意識高い系」なのではないかという仮説

          さて、連休中に今更だけれど『〈悪の凡庸さ〉を問い直す』を読み、考えこんでしまった。これは昨年『ナチスは良いこともしたのか』で話題を呼んだ田野大輔と小野寺拓也の編で、ハンナ・アーレントの『エルサレムのアイヒマン』に登場する〈悪の凡庸さ〉という概念について議論したものだ。 今日の日本において、〈悪の凡庸さ〉という概念はアーレントの意図から半ば離れたかたちで定着しつつある。それはつまり、「難しいことや負荷の高いことは考えたくない」人間たちが、組織や共同体の命令や場の「空気」に流さ

          「21世紀のアイヒマン」は昭和企業の歯車人間ではなく、むしろ「意識高い系」なのではないかという仮説

          「自民公明党」「立憲共産党」「国民維新の会」の3択を迫られる時代が来たときに「メディア」はどうあるべきかという話

           さて、今日は先日取り上げた「東京15区問題」の続き、だ。前回は近い将来、僕たちは「る可能性が高く、そしてどれも選べない人たちがカルト保守に騙されていく……というウンザリする展開のシミュレーションとその僕なりの対抗案を考えた。  そして今日は「メディア」の話だ。  僕はこの問題に背後にあるのは、確実に国内言論の、55年体制というか戦後的な構造への「回帰」の問題だと考えている。  おそらくこのままでは日本は90年代の「新保守」的な感性が「改革」の御旗を掲げて、昔ながらの偽善的

          「自民公明党」「立憲共産党」「国民維新の会」の3択を迫られる時代が来たときに「メディア」はどうあるべきかという話