見出し画像

誰が「ゴジラ」と戦うのか?

 遅ればせながら映画『ゴジラ-1.0』を観た。今から70年前の1954年に公開された第一作と同様に、今回のゴジラも核兵器による破壊を象徴しているのだろう。

 終戦直後を舞台にした今作のなかでゴジラに立ち向かっていくのは、政府ではなく民間の人たちである。戦争によって傷つき、多くのものを失いながらも、彼らは愛する人たちのために立ち上がるのだ。

 作品のなかに貫かれているのは「政府は信用できない」という市民たちの姿である。これは戦時中の大本営発表をはじめとする政府や軍部に対する皮肉だと見ることもできる。

 また、山崎貴監督自身がインタビューのなかで語っているように、コロナ禍で日本政府が機能不全に陥っていたことが、脚本に少なからぬ影響を与えているのだろう。


 ・・・『ゴジラ』の舞台を現代の日本に移しかえると、こんなストーリーも考えられる。

 ゴジラの掃討を託された政府機関が、必要な予算を確保するために財務省と折衝をする。

 しかし財務省側は、
「ゴジラに勝てるというエビデンスはあるのか?」
「ゴジラの被害を受けていない地域もたくさんある」
 と主張して首を縦に振らない。

 困った担当者は、国内の有識者を集めて「質の高いゴジラ対策特別部会」を開催する。審議の結果、特別部会から示された対策は、
「ゴジラが頻繁に出現する地域の住民に対して支給される『ゴジラ調整額』を、現行である所得の4%相当から10%以上に引き上げる」
 というものだった。

「それでは何の解決にもならない!」
「人の命と子どもたちの未来がかかってるんだぞ!」
 という人々の悲痛な叫び。しかし、それは政府には届かなかった。

 ・・・その後、裕福な人々は海外に脱出し、残った者たちは恐怖に怯えながら不自由な暮らしを続け、国全体が荒廃していった。


 ・・・言うまでもなく、この現代版「ゴジラ」が象徴するのは「教師の長時間労働」である。

 この「ゴジラ」と戦うのも、やはり政府ではなく市民たちなのだろうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?