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不完全幸福

3月まで居座っていた冬が、突然「あ、春でした」とでも思ったのか突然消え去って桜が各地のあちこちで咲き初めた4月。その4月第一週目に間に合わせるようにして桜の咲いた金曜日、12歳の中学校の入学式があった。

12歳が進学したのは地域の公立中学校で、12歳と同じ小学校のお友達の7割はここに進学するし、その上このすぐ前の3月に12歳の兄が同じ中学校を卒業したばかり、勝手知ったる中学校の、12歳自身も親も、随分と肩から力の抜けた、静かで穏やかな入学式。

「でも、制服が可愛くない」

12歳はよくあるタイプのボックススカートに、よくあるタイプの紺色のスクールセーターの制服がいささか不満だったようだけれど(兄の高校の制服のようなかっちりとしたブレザーがよかったらしい)、それでもこの日の為に新調した30ℓのリュックサックが153㎝と、まだ大人サイズになり切らないやや小ぶりな背中で嬉しそうに揺れていた。その横には前日に小学校の入学式を終えたばかりの6歳の妹。

今年の春、我が家では、中学校の卒業式、小学校の卒業式、幼稚園の卒園式ときて、高校の入学式、小学校の入学式、中学校の入学式が続いた。

自分の子の一番上と真ん中が3学年差、真ん中と一番下が6学年差、そして一番上と一番下が9学年差で、これだと高校中学小学校の進学が丸被りだと気が付いたのは、一番下の子が産まれた数年後のことだった。子どもは神様からの贈り物、授かり物であるとは言え、出たとこ勝負が信条の、それも算数が苦手な人間はこういう時ちょっと大変なことになる。

でも今回は、一番下の6歳が元気で家にいてくれていたので、子の卒業式3回、入学式3回もまだマシな方だったというか。

というのも3年前に現6歳が3歳で手術入院をしていた時、わたしは絶賛付き添い入院中で、一番上の子の小学校の卒業式にもその後の中学校の入学式にも出席できなかったのだった。更に6年前、6歳が産まれたばかりの頃も同じように術前術後の付き添い入院中で、この時は流石に12歳の、当時6歳だった娘の卒園式と入学式に母親がいないというのは可哀想だからと、病棟の看護師さんに生後3ヶ月の赤ん坊だった末の娘、今の6歳を預かってもらって病院から卒園式に駆け付けた。

園庭で母親の到着を待っていた娘の不安そうな顔が思い出の中にある6年前のあの春。

そういう春を駆け抜けて迎えた新高1、新中1、新小1の揃った今年の春の中学の入学式、ごく個人的な、ちょっとした事件があった。

それは、式典としての入学式を終えて、新入生がそれぞれの教室に入り、週明けからの予定や、各種お手紙、それから全教科の教科書を手渡されてその後、教室で解散これより下校しますと全館放送のあった時のこと。

「アーッ!ママとウッチャンや、変わってへん、赤ちゃんのころと同じ顔しとる!」

「ねぇねの先生の話がつまらない」「いつお家に帰るの?」「おなかすいた」なんて1年生の教室の廊下でぶうぶう文句を言うもので、仕方なくそこから少し離れた場所にあった椅子に座らせて6歳の娘、通称ウッチャンとお喋りをしていたわたしは、教室からぞろぞろ出て来た新入生に付き添う保護者のひとりに突然呼び止められた。

「おっきなったねえ、久しぶりやねえ、おばちゃんのこと覚えてへんわなァ」

その人はこの日の新入生のお母様のひとりだったのだけれど、同時にウッチャンが6年前、新生児期から乳児期を小児病棟で過ごしていた頃に何度も担当してくれた看護師さんだった。彼女は現在小児病棟の看護師ではないけれど、大学病院でのフルタイム勤務を続けていて、今は別病棟で副師長だか主任さんだかをしているそう。

なにしろこの人のお影でわたしは6年前の春、12歳の卒園式に出席できたのだ。6年前の卒園式の朝の検温だの投薬だの点滴交換だのが行われているあの殺伐とした時間に

「あたしが見とくから大丈夫やしね、ママ」

と言ってウッチャンを半日、PICUに置かれたベビーラックの中で預かってくれた、そういう人。更に言えばその後、4月の下旬に突然主治医から「明日退院な」と言われたウッチャンの退院にまつわるあれこれを「先生こういうとこほんまアカンな…」という主治医への呪詛とともに手配してくれた人でもある。退院物品、訪問看護への連絡、退院サマリー。

看護師が入職5年目くらい、30歳に手が届く年頃になるともう「ベテラン」と呼ばれてしまう若い看護師ばかりの病棟の中で、珍しくわたしと同年代のその人は、フロアの看護師、入院患児に24時間張り付く付き添い親、若いドクターみんなの『お姉さん』のようなひとで、底抜けに明るい気性がわたしは大好きだった。だから、ウッチャンが1歳くらいの時「他のフロアに異動になった」と聞いた時はとても悲しかった。

ただ、入院中の世間話の中で

「わたし達はどうやら、同じ中学の学区に住んでいて、一番上の子と、真ん中の子の年が同じらしい」

ということを聞いて知っていたわたしは、そうしたら上の子が中学校に入ったら会うかもねという話をしてはいたのだけれど、一番上の子の中学校の行事、参観、それから各種式典の際に彼女と会うことは出来なかった。

当時はまだあの感染症の件で世間がピリピリしている頃で、中学の各種行事はやや縮小されていたし、わたしは医療的ケア児のウッチャンに張り付いていて保護者懇談どころではなく(だいたいは夫が行ってくれていた)、彼女はフルタイム勤務の看護師、お陰で一番上の子の中学時代はずっとすれ違い続けていた。

それが今年の春、6歳になったウッチャンを帯同させることのできた中学の入学式でやっとエンカウント、巡り合うことができたのだ。

6歳になったウッチャンを見たその人は、誇張なしで、留保ぬきで、ものすごく、ものすごく喜んでくれた。何度も死線を越えてきたそのたびに現場でウッチャンのことを見守ってくれていた人だ。

「エーッ変わってへん、でも大きいわー、大きくなったわー」
「イヤ昔から大きいですよー」
「小学校?もう小学校やんな?」
「そうです、地域の公立の支援学級に入れて貰えることになって」
「そっかー、アッ、写真撮っていい?ウッチャンのこと知ってる同僚とかに見せたいねんけど」
「どうぞどうぞ、お陰様で小学生になれましたって、皆さんに伝えてください」
「ありがとうー、アッその子が6年前に卒園式やった子やんな」
「そうですー、ほら、12歳ちゃんの卒園式の時にウッチャンのこと預かってくれた看護師さんやで」

わたしは12歳にその人を紹介した。そして大興奮のその人から、あんた写真撮ってえやと言われてスマホを受け取ったのは「え、なんなんこの知らん人と、知らん子」という顔をした彼女のお嬢さん。

突然知らんおばちゃんと、知らん子と記念撮影をして旧交を温め出したお母さんに困惑気味のその子は、真夏の太陽並みに明るい彼女と面立ちは似ているけれど、お母さんとはまた違う大人しやかで物静かな印象の色の白いお嬢さんだった。わたしは彼女から紹介を受けた優しい面立ちのお嬢さんに

「お母さんには本当にお世話になりまして…」

深く頭を垂れてそう言った。

そしてこの時わたしは、これまでずっとウッチャンのことであらゆる職種の医療者に、看護師さんとかお医者さんとか、PTさんとかSTさんとか、RTさんとかとにかくありとあらゆるひとに関わっていただいて、その皆さんが日々あまりにも忙しそうで、その方々のご両親とかパートナーとかお子さん、そういう家族にひとは心配していないだろうかと思うあまり、いつか

「あなたのお父さんないしはお母さんのお仕事がどんなに素晴らしいか、わたしがそれにどんなに助けられているか」

それを伝えたいものだと思っていたのだけれど、今が千載一遇の好機だと気づいてわたしは自分の娘と同じ年のその子にこんなことを言った。

「あのねえ、あなたのお母さんは看護師さんとして人として、ほんとうに素晴らしいよ」

ただの変なおばちゃんになった感はものすごくあるけれど、6年越しの謝意をその人のご家族に伝えられたことが、わたしは嬉しかった。


重篤な疾患のある子を育てていると、だいたい碌なことはないというか、日々は不便と不安と不測の事態の連続で、それを在宅で看護していると働く事もままならないし、本人だって大変だし本当なら無い方がいいのだけれど、こういう嬉しいことも―全く身内でもなんでもない人に自分の娘達の成長を寿いでもらえるだとか、その人の娘さんにお母さんすごいんだぜって伝えられるとか―そういうこともあるのでほんとに侮れない。

『小児病棟で奇形の体を抱えて管だらけの姿で生きながらえることの一体何が幸福か』

ということを言う人が最近どこかであったようだけれど、わたしは完璧でなく完全でもないからこそ生まれる幸福というものは、必ずあると思ってこの6年を暮らしている。

時折、こういう幸福なおまけ的邂逅だってついてくる。

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