見出し画像

わたしと大阪

大阪が苦手だった。

わたしが地元の北陸を出て最初にひとり暮らしをしたのは、京都御所のごく近くの小さな学生用アパートだった。

平安の昔に建立された寺社仏閣と苔むした社の隙間に突然コロニアルスタイルの教会が現れ、その辺にいる若者の大体は近隣の大学の学生、駒寄せに囲われた町家の並ぶ街並み、そこにあるすべてのものをわたしはとても好きだったし、今でもとても好きだ。わたしがハタチ前後だったあの界隈にはまだ喫茶店の『ほんやら洞』があって、いもねぎが名物の『わびすけ』があった。

御所ではいつも誰か近所のお爺ちゃんとかお祖母ちゃん、あとは近隣の保育園の子ども達、誰かがのんびり散歩をしてゆったり遊んでいたし、そこで明らかに講義をサボって昼寝している近隣大学の学生も定点観測できた、大体私の母校の学生だった。1ドルは120円前後で、インバウンドなんて言葉はまだ聞いた事もなかった。

「京都で大学生やったことあるひとって、一生京都の話せえへん?なんなんアレ?」

世間の人がそう言うように、学生として7年京都で暮らしたわたしは京都の思い出話ばかりする社会人になり、その辺は14年前、夫の仕事の都合で大阪に移り住んだ時も変わらなかった。むかしの公団住宅仕様で洗濯機を室内に置く事ができない上に風呂に追い炊き機能がなく全室畳敷きという、タワマンの対義語みたいな社宅で荷ほどきをしながら(京都じゃなくて、大阪で子どもを育てるのか…)わたしは深くため息をついた。

大阪に引っ越した当初、わたしの『大阪』のイメージは吉本新喜劇だった。

わかりやすいノリ突っ込みとか、ベタなボケに舞台上の全員が派手にずっこけて床に転がる姿とか、一見強面で実は病的に涙もろく情に厚い借金取りとか、「鼻から手ェ突っ込んで奥歯ガタガタ言わしたろか」など言う麗しいマドンナとか、そのマドンナに恋するお人好しなうどん屋の三代目とか。そういうものが『大阪』だったので、北陸ののんびりした田舎で育って特に喋りが面白い訳でもなくオチのある話もできないわたしは、やっていける気がしなかったのだ。

引っ越しをしてからすぐ出かけた場所も、あまり良くなかったのかもしれない。

大阪に越して来た当時、今15歳で高校生の息子がまだ2歳にもならない年頃で、丁度外の世界の色々に興味の向く時期だった。

でんしゃ、ワンワン、にゃんこ、ぶーぶー、世界のすべてには固有の名前があると知り始めた子どもというものは、親の目になんとも面白く眩しく映るもので、出来ることなら森羅万象すべてのものをこのちいさい人の瞳に映してやりたいものだと思った当時のわたしは、丁度今頃の季節の日曜日「息子を動物園に連れて行ってあげようよ」と夫に提案した。

わたしの頭の中にはその時、大学時代から慣れ親しんだ岡崎の京都市動物園があった。けれど「ええよ、地下鉄乗り継ぎ上手くいくかなあ」と言いながら電車の乗り換えを調べていた夫がわたしと息子を連れて行ってくれたのは、京都のそこではなく大阪の天王寺動物園だった。

なんとなく薄暗い、地下鉄の連絡通路をぐるりと歩き、階段で地上に出た時の印象は「こういうの、テレビで見たことある」だった。そこはベビーカーに乗っている1歳の息子を見た通りすがりのおっちゃんが

「オッ、ボウズはこれから動物園かァ?ええなァ」

と突然気軽に声をかけて来るところで、折れたビニール傘がサドルのない自転車に突き刺さっているとか、高架下の道の脇でお昼寝をしているおじいちゃんがおるとか、動物園前商店街の串カツ屋が昼間から満席であるとか、その昼間からビールと串カツで幸せになっているおっちゃん達とか、そういう感じの場所だった。

そこで、大阪初心者だったわたしはちょっと萎縮してしまったのだ。

そしてこの頃の息子が、ひとたび目を離すと一体どこに行ってしまうか皆目わからない猪突猛進の鉄砲玉で、警戒心というものが一切ない、下手するとシロクマの檻にだって入りかねない上に、ベビーカーには全く大人しく乗っていないといういささかたまらないタイプの幼児だったもので、息子の身の安全を確保することに必死になっていたわたしのあの日の記憶は、動物園前駅の地上に上がった時の街の印象と、動物園のチュウゴクオオカミの檻の前で

「なんやコイツら寝てるばっかで何もしよらん、つまらんなァ」

と呟いていた孫連れのお爺ちゃん、そしてそのお爺ちゃんの帽子が『近鉄バファローズ』(当時球団は既にオリックス・バファローズだったはず)のものだったことだけ。その上、当時鉄オタであった息子に動物園はあまり受けなかった。

そうしている間に、息子が2歳半の時に2番目の娘が産まれ、その後少し時間を置いて末の娘が産まれて、そしてその末の娘がちょっと難しい病気を持っていて手がかかることもあって、わたしは「そしたら今日はちょっと梅田まで」とか「難波まで行ってみよか」など、そんな大阪市内の賑々しい場所に出かける生活からはすっかり遠のいてしまった、今わたしの生活圏にある「大阪っぽい風景」は豊かな水を湛えてたゆたう淀川、それだけ。

それにもともと方向音痴に定評のあるわたしが、子どもらが学校に行っているわずかな隙間に梅田阪急に行こうとしても、まずは阪神に辿り着いてしまい、地上に出た方がわかるかもしらんと階段を上がったところで曽根崎警察を前にため息をつき、しまいには紀伊国屋のあたりで「帰れへんなった…」とつぶやくに至る事は明白で、そうなると帰宅は遅れるし、子どもらはお腹が空いて泣くし、身の安全と家庭の平和のためにも自宅周辺かの生活圏からほとんど出なくなったのだった。

そこに小さな転機がやってきたのは今年の春のこと。

14年前のあの日、動物園に連れて行き「は?どうぶつ?なんもおもんないわ」という顔をしていた幼児が大阪市内にある公立高校に合格したのだ。中学時代、あまりにも生活態度がアレなので(不良とかそういうのではなくて、忘れ物がとにかくひどい)大阪府立高校の入試ではかなりウェイトを占める内申点がもうちょっと振るわず、これでは息子が言う公立高校はちょっとなあと、息子にふたつ私立高校を受験させてそこから合格通知を貰った上で

「ま、当たって砕けて来るがよい」

と送り出したものがまんまと合格を決めてきたのだ。子どもが大阪の公立高校に通うようになるともうそこから住民票を動かすことはできない、わたしはいよいよ大阪に土着することになったのだなあと思ったのは、高校の入学金5650円を支払った3月の、よく晴れた日のことだ。

大阪府立高校では、合格の確定が出ると今度はその日の午後に合格者登校日と入学説明会というものがある、これには親子で現地に赴かないといけない。

これまで末娘を帯同できないし、彼女の預け先もないからと、息子の学校説明会や見学会などを全て夫に託していたわたしは、息子の合格発表のこの日、初めて息子がこれから3年間通う学校の最寄り駅に降りたのだった。

たいへんに、賑やかだった。

そこはあの動物園前駅の、あらゆる事象を詰め込んで内包したカオスではなかったものの、たい焼き屋がラーメン屋が定食屋が肉屋が雑駁に立ち並ぶ中に妙な纏まりを生み出す駅前商店街と、その裏にずーっと続く細い路地の飲み屋街、おおよそ高校生の通学路としては「賑やかすぎん?」と思えるそこをわたしは何故かとても気に入ってしまった。そこの沿線でちょっと途中下車すれば大型書店も美術館も劇場もミニシアターすらある。2010年頃を境に大阪の文化的施設は徐々に消え、文化そのものが衰退しているのだとは聞くけれど、北陸の田舎で育ったわたしにはまだまだ眩しい。自分の傍らにいる15歳の少年がここで18歳までの月日を過ごすのだなあと思うと、なんだか羨ましい、いや妬ましい気持ちになった。

ここが、君の街になるのか。

晴れて大阪の高校生になった息子は、乗り換え駅である梅田の人の濁流をどう泳ぎ切るかとか、地下鉄は何番目の車両に乗るのが効率的かを緻密に計算しつつ、そういう事柄にたまに疲れて「私立にしとけばよかったわ(滑り止めで受けた私立高校の方が自宅に近かった)」などとは言うけれど、部活にも入りおおむね日々楽しそうだ。毎日その日にあったことをちょっと話してくれるのでわたしもあの街の高校生の日常を垣間見ることができる。「某部の連中が道場の畳を一枚剥がして外に持ち出してばりくそ怒られ、部活停止になった」というのが最近一番ホットな話題。一体なにをしとんねんな君らは。

前述の手のかかる末娘のことがあって、例えば息子の通う学校の最寄り駅であるとか、美術館のある駅だとか、それからあの動物園の駅なんかに気軽に出かけられるようなわたしにはまだまだなれないのだけれど、わたしは大阪で3人の子どもを育てているうちに、なんだか大阪が好きになっていた。

大きな街だ。そこには当然いろんな人がいてそれぞれの暮らしを立てている、いい人がいて悪い人がいる、遠い国からやってきた人がいる、同じ事情のあるひとや、同じ地域出身のひと達が固まって暮らしている街がある、現役の遊郭さえある、あらゆるものを内包して街が成り立っている。

今なら、動物園前のあの喧騒も、14年前の若い母親だったわたしが捉えたものとは全然違うものに映るだろう。

今、24時間医療用酸素をつけて生活している末娘を見て

「オッ、どうしてんやこの子、こんなもんつけて」

なんて気軽に聞いてくるおっちゃんがその辺にいる街はそうないし、そのような質問をしてきたおっちゃんに親のわたしが「心臓の病気なんですよー」と答えて

「ほうか、せやけどまあ、きっとようなるわ、こんなに別嬪なんやから」

という何の根拠もない言説で病気は治ると断言し、その上うちの末っ子をかいらしい子やと言ってくれる人がわりに多く生息している街も、多分そうない。


サポートありがとうございます。頂いたサポートは今後の創作のために使わせていただきます。文学フリマに出るのが夢です!