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鷗外びより

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森鷗外に関することや触発されたあれこれについて書いています
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連載小説『ヰタ・セクスアリス・セーネム』一章 グラビアアイドル(三)

連載小説『ヰタ・セクスアリス・セーネム』一章 グラビアアイドル(三)

 持参した受付票を出張所の受付の女性に見せて番号票を受け取った。平日の午前中なので混んでいないからすぐに番号を呼ばれた。何箇所がある窓口のうちの一つへ行って担当者の前に座る。
 受付票を渡して、本人確認のために生年月日を聞かれてそれにこたえる。通過儀式が済んだ。
 彼女がパソコンを操作して、勤務地や週の勤務日数などで絞り込んで、検索をかけてくれている。何件かヒットしたらしい。
「こちら、なんかはど

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連載小説『ヰタ・セクスアリス・セーネム』一章 グラビアアイドル(四)

連載小説『ヰタ・セクスアリス・セーネム』一章 グラビアアイドル(四)

 あぁ、柏葉由香がやさしく見下ろしてほほ笑みを浮かべて言う「ようこそ天国へ」。
「いやいやいやだー。ぼく、まだ死にたくないー」とこどもの順平が駄々をこねる。そのとき正気に返った。
 初老の女性が見下ろしながら心配そうにしている「だいじょうぶですか?」。
 床にころんだ瞬間からわずかの間だが、順平の記憶は飛んだようだ。「はい、だいじょうぶです。お恥ずかしい」と順平はいそいで立ち上がろうとして、一瞬よ

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連載小説『ヰタ・セクスアリス・セーネム』一章 グラビアアイドル(五)

連載小説『ヰタ・セクスアリス・セーネム』一章 グラビアアイドル(五)

 友人や知人の話で骨折のことをよく聞く。やれ指だ、肘だ、腕だ、脚だ。
 とっさのとき機敏に反応できないからだろう。若いころならなんなく避けられた災厄。それが今となっては避けがたい魔物のようにまとわりつくことがある。我々世代にありがちなことだ。思うほどにはからだがついてこない。
 骨折部位や本人の骨密度によっては、へたをすればそのまま寝たきりになったって不思議じゃない。そんな不幸は願い下げだ。話を聞

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連載小説『ヰタ・セクスアリス・セーネム』二章 喫茶店のママ(一)

連載小説『ヰタ・セクスアリス・セーネム』二章 喫茶店のママ(一)

 胸がもんもんした。
 順平が左肩亀裂骨折事故に遭って不便が始まった。服の着脱がままならない。着替えは和美に手伝ってもらえるが、トイレや入浴時まで頼むのは気が引ける。時間が多少かかっても自分でなんとかかんとかやり通す。
 持っている下着やシャツ類はからだにぴったりしたものが多いので着脱が大変だと気付いた。ユニクロや無印へ行き、そで口やむね周りがゆったりしたものを和美と選んで買った。
 靴下の着脱も

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連載小説『ヰタ・セクスアリス・セーネム』一章 グラビアアイドル(ニ)

連載小説『ヰタ・セクスアリス・セーネム』一章 グラビアアイドル(ニ)

 柏葉由香が可愛くて美人なことは間違いないけれど、難を言えば鼻が……。と細部にこだわれば、別の見方も出てくる。幅が、少し広いのだ。小鼻が膨らんでいるというか、下に向かって末広がりな印象がある。
 実は、本人もまさにこの点に今までコンプレックスを抱いてきたと、別動画で明かしている。少しでも化粧でカバーしようと工夫を重ね、自分なりに納得する仕方をあみだしたそうだ。
 すっぴん状態から完成形までのコスメ

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連載小説『ヰタ・セクスアリス・セーネム』一章 グラビアアイドル(一)

連載小説『ヰタ・セクスアリス・セーネム』一章 グラビアアイドル(一)

遭遇、ということが人生にはある。

 胸にキュンときた。
 肩出しのフリル・ワンピすがたで公園をめぐりながら、ポーズをとったりすそを揺らしたりしている。ワンポーズワンポーズが決まる。スタイルがいいからだろう。どんな動作も様になっている。
 場面が室内にかわった。髪型も前髪パッツンに変えて、透け感のあるチュールのミニスカートをはいて床に腹這い、本を読んでいる。かわいくてまぶしい。さっきの場面ではおね

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連載小説『ヰタ・セクスアリス・セーネム』について

連載小説『ヰタ・セクスアリス・セーネム』について

『青年と女性たち』『まん・まる』につづく三作目となるこの連載小説は、現代のシルバー世代のはなしになります。週三回程度の掲載予定です。

標題について おそれながら、森鷗外の名作『ヰタ・セクスアリス』[VITA SEXALIS]にならってラテン語にしました。「老人」をラテン語でいうと『セーネム』[SENEM]だそうです。

制作のきっかけ 明治時代が舞台の『青年と女性たち』に続けて『まん・まる』で昭

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連載小説『青年と女性達』-二十一- 大団円

連載小説『青年と女性達』-二十一- 大団円

二十一

 小さな女の子が扉にあらわれた、と思うとちょこちょこと駆けて来た。鷗村の末娘の莉々、リリーだ。途中で周りの人々に笑顔を振り撒き、まるで今日の主役の積りの様だ。参列の人たちも「リリー、リリー」と囃す。と、舞台まで来て鷗村の袖を掴んで「パッパ、だっこ」とせがんだ。
 鷗村どうするかと衆目が集する中、我が娘を抱き上げ膝の上に載せて満面の笑みで見降ろしている。純一とおちゃらも顔を見合わせて微笑み

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連載小説『青年と女性達』-二十- 果実の熟する時

連載小説『青年と女性達』-二十- 果実の熟する時

二十

「ねえ、鷗村先生ったらとっても子煩悩なのよ」とおちゃらが云う。
「どんな風にだ」純一が興味を持って問う。
「末の娘さんを膝に載せてね『リリーや、パッパにそのお菓子をおくれ』なんて先生がおねだりしているの。そしたら莉々ちゃんが先生に上げるそぶりして、ぱくって自分で食べちゃうのよ。二人とも可愛いね」
 其れを聞いて純一はおちゃらに釘を刺す。
「それを外で喋っては駄目だぞ」
「分かってるよ。それ

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連載小説『青年と女性達』-十九- 心ばえ

連載小説『青年と女性達』-十九- 心ばえ

十九

 おちゃらの行儀見習いが決まった日、鷗村の碁の相手をしながら幾許かの話を純一はした。
 胸底から沸々と湧き出す創作熱の泉。観在荘での詩歌人、文士、画家や彫刻家等から受ける芸術的な刺激。先日大村と同道して感銘を受けた歐村の講演、そして数々の著作。
「今何を書いているんだ」と歐村が聞いた。
「はい、前作とは異なり現代を舞台とした人間の活動のあり様を、余り浪漫的主情に傾かない写実的な視点で書いて

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連載小説『青年と女性達』-十七- 夫人の瞳、しづえの涙

連載小説『青年と女性達』-十七- 夫人の瞳、しづえの涙

十七

 純一は腹を決めてその週末坂井夫人を訪ねた。しづえが扉を開けて、驚いた様子もなく落ち着いた声で「いらっしゃいませ」と云う。
 少しばつの悪い純一はくぐもった声で「先日は、……」と語尾も儚く挨拶らしき事を云う。
「どうぞ」としづえが奥へ案内する。と、廊下の途中で歩を止めてしづえの方から云った。
「先日はごめんなさい。急に一人で先に帰ったりして」
「いやこちらこそ。酒の上の事とは云え失礼を」

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連載小説『青年と女性達』-十八- 毛利家の庭

連載小説『青年と女性達』-十八- 毛利家の庭

十八

 国へ結婚の意向を伝えたら反対はなかった。しかし、ひとつの条件を付けて来た。おちゃらを然るべき処へ遣って一年間の行儀見習をさせよとの事だ。
 この条件は祖母か一体誰の案だろう。巧者の企てだと純一は想った。表向き反対はしないが、一年の間おちゃらの根気が続くものか試して見て、駄目なら純一が芸者との結婚を諦めるだろうという読みが国元にはある。そう純一は勘ぐっていた。
 さて、そんな懸念は暫時置い

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連載小説『青年と女性達』‐十六- 主導権

連載小説『青年と女性達』‐十六- 主導権

十六

 大村とお雪の結婚が決まったのは其れから暫く経った時の事であった。大村本人が喜色満面で純一の家に来て伝えた。普段、物調面を見ることが多い人間がこうも変われるものか。一人で来てくれたのがせめてもの慰めだ。
 先日のおちゃらとの三人での一件もあった今、お雪と面会せねばならぬのは辛いような落ち着かない気がするのだ。お雪にしてからが同じ事であろう。気を整える少しばかりの時間というものは互いに必要な

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連載小説『青年と女性達』-十五- お雪の決心

連載小説『青年と女性達』-十五- お雪の決心

十五
 

 お雪は先ほど触れた通り、お安の機転でおちゃらが純一を訪問していることを知って取る物も取り合えず純一の家へ駆けつけた。先日のしづえのときと似た状況で恋敵相まみえる場面となったが、内心しづえの時とは格段の差で危機感を抱いていた。
 年齢も自分と同じ位花柳界の人気者だ。昨今、元老でさえ元芸者と結婚するご時世だ。純一がおちゃらと結ばれても何ら不思議はない。どんな女性かも気にかかる。世間の評判

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