AKANE
双極性障害と診断され休職期間中に起こった事、思ったことをまとめた記事です。
亜熱帯地方の南の島で生まれ育つ。 学校に馴染めず友達関係も難ありまくりの思春期。 興味があるものは芸術全般と食べること&作ること。英語も好きだった。 でも「私の好きなもの全部フランスにあるじゃん!」と気付いた中3の時から勝手にフランス語の勉強を始めた。 「あー、この狭い島から早く抜け出したい」 やっと抜け出せたのは高3の夏。 1年間フランスの高校に通った。 初めて学校生活が楽しいと思えた。 友達が何人もできた。 何もかも美味しかった。 街並み、初めて見る雪景色、バカ
休職中は時間があったし病気と向き合う時間が多かった為なかなかの頻度でnoteを更新していたが、復職後は忙しかったり疲れていたり、そもそも書くネタがなかったりしてnoteを更新していなかった。 復職したのは良かったものの、この不景気の影響で元々短時間正社員の私はシフトをなかなか入れてもらえず(正社員といいつつシフト制)、「え、こんなんじゃ生活できないよ。生きていけない!」という状況に追い込まれた。 休職期間中は傷病手当金というのが協会けんぽから入るが、それは元々貰っていた給
先日通院の際に主治医に聞くと、 「もうほとんど寛解に近いですよ」 と嬉しい言葉を貰った。 私「具体的にあとどれくらいで寛解しそうですか?」 先生「あと2ヶ月くらいだと思います」 あと2ヶ月ということは、6月頃には寛解してるのかもしれないということになる。 考えてみれば重い鬱で初めて受診したのは去年の6月だった。 ちょうど丸1年か。 最近は頓服を飲む機会もだいぶ減り、通常モードの自分になってるなぁと自分でも思う日が多かった。 そして今朝、ふと 「勉強してみようかな」
復職して初日は3時間勤務。 それでもけっこう疲労感はあった。 1日休みがあり、そしてたった4時間半勤務の2連勤。 たった4時間半なのに疲労感は半端じゃなかった。特に1日目は。 2日目は慣れて来たのか少し疲労度は軽かった。 そこでふと、 「仕事終わりにお酒を飲む」を約7ヶ月ぶりにやってみたい! と思い立ち、やってみた。 これが予想以上に美味しくて、なんだか懐かしくて、最高だった。 私はお酒全般好きなので休職期間中もよくお酒を飲みに行っていたが、仕事に復帰してから飲むお酒
重い鬱状態から休職に入り約7ヶ月経ち、本当に色んなことがあったが復職が叶い今日がその初日だった。 前日の夜はやや緊張していてお酒で誤魔化していた。 当日もなんだかハラハラした気分で、でも頓服を飲むほどでもないという感じで職場に向かった。 色んな人の話を聞いて「復職は大変だ」と聞いていたので色々覚悟していた。 自分がどう転ぶか予想がつかないので頓服は肌身離さず持っていた。 しかし、実際復職初日の感想は私が予想していたものとは全然違っていた。 「これこそが日常」 「ここが
3月を振り返りたい。 復職が決まり大喜びしたのも束の間。 躁状態の時に知り合った人との関係が完全に終わった。 その後、愛犬のももちゃんの具合が悪くなった。 一度は元気な姿も見られたが階段を転げ落ちるように悪化し最後には亡くなってしまった。 初めて大切に大切に育てた室内犬だったし、今は亡き母が最後に迎えた命でもあった。 この子のおかげで私は動物が大好きになった。 本当に特別な子だった。 自分も死にたくなる程の重いペットロスをどうにかこうにか乗り越えた矢先に祖母が亡くな
大切なトイプードルのももちゃんが亡くなった後、私は悲しくて悲しくてなかなか前に進めなかった。 叔父が亡くなった時も母が亡くなった時もそうだが、私は特にこれといった宗教を信じていないくせに大切な存在が亡くなるたびにキリスト教的な考えで 「天国に行ってしまった」 「もうこの世界にはいないんだ」 と思っていた。 今回ももちゃんが亡くなったことでこの私の思考の癖が危険な方向に向いてしまった。 天国に行ってしまった ↓ 会いに行きたい ↓ だから私も死んで火葬されたい その気
愛犬のももを亡くしたばかりで、ここのところ毎日泣いているが、そのような時や逆に幸せな時にいつも私をいつも支えてくれる言葉がある。 今回はそれについて紹介したい。 時は遡るが私が高校生くらいの頃、母はバリバリ働いで稼ぐ「ザ・キャリアウーマン」といった女性だったが多忙な中でも「心理学を勉強したい」といい、40歳くらいの時に臨床心理士を目指すため働きながら通信で大学生をやっていた。 家の中には大学の教科書がたくさんあったので私は時々読んでいた。 河合隼雄先生の存在を知ったのも
冷たく硬くなったももと最後の一夜を過ごし、私たち夫婦は夕方葬儀の人が来るまでの準備をした。 私たちは黒い服を着てももの為に花を買い、好物だったバナナとソーセージパンを買い、手紙を書くためのレターセットを買った。 帰宅し、手紙を書いた。 もも宛の手紙と、母宛の手紙。 2人が天国で再会できることを願って。 葬儀の担当者がうちに来て、私たちはももと最後のお別れをした。 火葬車にももを乗せて、口の近くには好きだった食べ物を置き、両手の間に手紙を挟み、身体の上にブーケを置いた。
私は双極性障害で、いつもnoteにはこの病気に関連することしか書かないが、つい数日前に大切な大切なペット(トイプードル9歳♀)のももが亡くなったので記録として書いておこうと思った。 ももは私の母が末期がんの時に「私が飼う!」と母が言い、本人が長年メールアドレスにしていたmomochan0125@から取って「もも」と母が名付けた子だった。 ももが家にやってきてわずか2週間足らずで母は亡くなった。 母が死に、悲しみに暮れる私を救ってくれたのはももだった。 いつも家の中を明る
前回の記事では躁状態に知り合った人との付き合いが終わった話を書いた。 あれだけ気分が荒れる出来事だったので、翌日クリニックに急遽予約を入れて行って来た。 自分の感触としてはもう半分くらい吹っ切れて大丈夫な気がしたが、念の為主治医の意見を聞きたいと思ったからだ。 いつものようにまずは日記を読んでもらった。 「被害者意識」という言葉に「うんうん」と頷いていた。 そう、あの日あの友達は「僕の苦しみを分かって欲しい」と言っていたし、もう全体的にそんな態度が滲み出ていたのだ。 私
珍しく1日で2記事投稿しようとしている。 今の気持ちを残しておきたいからだ。 私には双極性障害の躁状態に知り合って友達になった人がいた。 一時期は付き合いを絶ったが偶然再会し、それをきっかけにまた友達に戻った。 それからは私が鬱でも混合状態でも躁状態でも、睡眠薬をオーバードーズして救急車で運ばれた後もなんだかんだ友達でい続けてくれ、食欲がなく料理が出来ない私を食事に連れて行ってくれることが多かった。 双極性障害について理解したいという姿勢も見せてくれ、どのような症状な
今日の私は落ち着いてるのか鬱なのか混合状態なのか自分でもよく分からない。 双極性障害を患って初めて抱えた「モヤモヤ」がある。 これは読む人によってはムッとしてしまう話かもしれない。 しかし、同じ病気を抱える人にとっては共感できる話だと思う。 私は双極性障害という病気を患ってから、健康な人(鬱や双極性障害などの気分障害の診断をされていない人たちのこと)の悩みや相談事を聞く時や、その人なりの苦しみを聞く時、心の中でこんな自分が出てくる。 「でも仕事に行けてるなら元気じゃん
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待ちに待った精神障害者手帳の交付のお知らせが自宅に届いたので、届いたその日に夫と一緒に役所に行ってきた。 貰った手帳の等級は3級。 主治医からは 「あなたなら2級は通ると思います。これだけ大変だからね」と言われていたので「え??」と、一瞬戸惑った。 そして少し残念な気持ちになった。 2級と3級では受けられるサービスが違うはずだからだと思ったからだ。 その他諸々の手続きをした後、残念そうな私を気遣ってか、夫が「今日はあそこに行こうか」と、私たちの最近のお気に入りの中華料理店