自分にかけた呪いをとく
小さい時に親からよく言われた言葉で、ずっと今でも自分の心の奥深くに
残っているものってないですか?
これは誰でもあると思うのですが、どうでしょう?
今、どんな言葉が思い浮かびましたか?
実はそれがあなたがあなたにかけている「呪い」です。
私たちはこの自分で自分にかけた「呪い」に氣づき、それを解いた時
最大限に自分の魅力を発揮できる時が来る!と思うのです。
私の呪いは「わがまま」と「いじわる」
私の場合で言うと、私は小さい頃からよく母親に
「あんたはわがままやから…」と言われ続けてきました。
結婚の挨拶で初めて母にオットを紹介した時も、オットに向かって
「わがままに育てた子なので…」と言っていたのを覚えています。
なので私もずっと自分を「わがままな子」と認識して生きてきました。
私にはひとつ下の妹がいるのですが、その関係性として姉の私は自由氣ままに振舞う「わがままな子」
妹はそれを我慢する「忍耐強い子」という図式が私の中にありました。
それは母がそう言っていたのを私がそのまま受け継いだものでした。
そしてもうひとつ。
私は自分のことを「いじわる」だとも思ってきました。
これは祖母が私によく言っていた言葉。
私が妹をいじめると
「この子はいけず(いじわる)やわ」と怖い顔をして言われたのを
今でも鮮明に覚えています。
おばあちゃん子だった妹は祖母に溺愛されていたので、祖母からすると
妹のおもちゃを取り上げたり、からかう私のことをあまり好きではなかったのでしょう。
そして妹も小さい頃は私のことを「傍若無人にふるまうこわい人」と思っていたようです(大人になってから聞いてビックリした)。
これら全部の要素が集まって私は私を
「わがままで、いじわる」にしてしまっていました。
でもね、これって事実じゃないんじゃない?
ということに氣づいたのです。
年末に受けたお金のセッションで、
私のお金に対する思いはそのまんま
父に対する思いだと分かった時、私にはお金を稼ぐ能力があったし、
今までそれを使ってきたことも理解できるようになった。
その才能をないものにしていたのは、父を否定していたから。
嫌悪する父から受け継いだものなんてないことにしたい自分がいたから
ということに氣がつきました。
そして私には「お金を稼ぐ才能」以外にも父が持っている
「洞察力」「直観力」「カリスマ性」「本物志向」という資質が
私の中にもあるのだろうということも判明したのです。
で本題はここから。
私が私を「わがままでいじわる」と思っていたのは、これも父が持っていた
ものだということに氣づいたのです。
母が私を「わがままな子」と言っていたように、母は父のことも
「わがままな人」と言っていました。
だから私は父譲りのわがままな自分を嫌っていたけれど、ふと思ったのです。
母が言うところの「わがまま」は、何を定義にして言ってる?と。
母から見た私が、母にとって扱いにくかったからそう言っていただけであって果たして私は本当にわがままだったのだろうか?と。
そしてそれは同様、父に対しても同じ。
母は自分のコントロール下におけない父のことを「わがまま」と言っていただけだと。
「いじわる」もしかり。
祖母が見る私が「いじわる」に見えただけで、本当の私は「いじわるな子」じゃなかったのではないか。
その視点で自分を客観視できた時、私は私に「わがままでいじわるな子」という呪いをかけていたなぁ、と思ったのです。
そう。
ホントの私は「わがまま」でも「いじわる」でもなかった!
呪いの言葉は実は最大のチャームポイント
その「呪い」に氣づき、それを解いた時、実はそれが自分の持っている最大の魅力なのではないかと思ったのです。
私の「わがまま」。
わがままってね、「我がまま」=「あるがまま」でしょ。
これほど自分に正直で、自分を愛していることってないと思うのです。
自分の宇宙を信じて、生きている感じ。
私、数秘で言うと生まれ持った数(宿命数)と、生きていく数(運命数)が
両方「3」でね。
「3」って子供の数字で、自由奔放、楽しいことが大好きで前しか向いていない数字なんですね。
好きなことを追求していくのが人生楽しく生きるコツみたいな。
しかも30日生まれなので、「3」を「0」が強調するぐらい「3」が強い(笑)。
ちなみに父は3日生まれの「3」。
父より私の方がもっと「わがまま」な質を持っているのです。
しかも私は宿命も運命も両方「3」なので今生では「わがまま」をやり切るために生まれてきた、みたいな。
ここを私は抑えてた。
自分の一番の魅力を封じ込めてた。
だから苦しかったんや、と。
ここは抑えるところではなく最大限に解放するところ。
自分の一番の魅力なんだなぁ、と氣づいたのです。
「いじわる」も同じ。
わがままに振る舞うことは時として誰かにとっては「いじわる」に
見えることもあるかもしれないけれど、それはその人の世界の中での話。
私が私を大切に思い、心地よくあるために行う行為であれば
誰に何を思われてもいい。
と言いつつも…
この部分に関してはひよってしまう自分がいる。
でも分かっているのなら少しづつでいいので、トライしていけばいい。
そんな自分をやさしく見守れる自分でありたいな、と思っています。
自分への「呪い」は、実は自分の最大のチャームポイント。
そこに氣づくと解放が始まり、あるがままの自分でいられるようになると
他の魅力(私の場合「洞察力」「直観力」「カリスマ性」「本物志向」)が覚醒していくんだろうなぁ、と感じています。
こうやって少しづつ自分への誤解が解けるのって氣持ちがいい!
私の中心に私が戻ってくるような感覚。
昨年クリスマスに受けたお金のセッションをきっかけに、ゆるく続いている
氣づきの連鎖。
あのセッションは私へのクリスマスプレゼントだったのかもしれないなぁ、と思っています。
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