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物語の戦争

今までずっと、戦争とは、自国の政治的目的を相手に強要するための外交的な最終手段だと思っていた。だから、戦争は勝てば官軍。賠償金も、領土の割譲も、その後の統治も、全て戦勝国の胸三寸次第だと。

大日本帝国が「邪悪な物語」の一部になったことも、突き詰めて考えれば全て、戦争に負けたからだと、そう思っていた。でも、2022年に勃発した侵略戦争を目撃して、そうじゃないんだ、と気がついた。

大事なのは共感されうる「物語」を持っているかどうかだ。

プーチンの物語

ウラジミール・プーチンは、今回の軍事介入の正当性を常に訴えている。

しかし、この戦争が物語、つまり虚構同士の戦いという本質を分かっているようには見えない。なぜなら、言うることは全て、プーチン自身の頭の中にある歴史的、論理的整合性に基づく、領土的野心に帰結するからだ。

「特別軍事作戦」の目的が、ウクライナ東部で虐げられている同胞の「保護」と言うくせに、NATOの東方拡大とか現在のウクライナの由来がソビエト時代の行政区分に過ぎず、ちゃんとした国ではないとか、ウクライナに侵攻することの法的な正当性を主張することは矛盾じゃないか。

平たく言えば、共感できないのである。あのおっさんが1人で部屋に閉じこもって悶々と考えた「こうあるべき論」を、銃弾を撃ちながら正しい正しいと叫んでも、その銃弾でバラバラにされる子供の映像の前には無力だろう。当たり前だ。プーチンは、絶対に撃ってはいけなかったのだ。

ゼレンスキーの想像力

ウクライナの大統領、ヴォロディミル・ゼレンスキーは、自分自身と国民の命を張って、彼らなりの「正義の物語」をこしらえた。

ミンスク合意の不履行や、ウクライナ東部における親露派勢力との紛争など、彼だって突かれたら痛いところもあるはずだ。しかし、戦車と陸軍兵力で一般市民を虐殺するロシア軍と、その猛攻にも関わらず首都にこもって徹底抗戦を訴える大統領。ことの真意はどうあれ、この絵面で世界がどちらに味方につくかは、火を見るより明らかではないか。

粛清を重ねてのし上がった孤高の独裁者と、コメディアンとして常に他者からの評価にさらされてきた異色の大統領。頭の中にある「私の正義」を投げてよこしたプーチンと、「他者への想像力」を最大限発揮して世界を味方につける物語を作ったゼレンスキー。非常に対照的だ。

シリアやアフガニスタン、ミャンマーのロヒンギャ問題など、世界中に転がっている人道への危機に対する世界の態度がバラバラなのも、それぞれの危機の中の主体者が世界の注目や共感を集める形の「物語」を作れないからではないだろうか。我々は、虚構によってのし上がった故に、虚構なしには連帯できないのだ。

人類は、物語なしでは連帯できない

戦争が、外交手段の最終手段である、という冒頭の話に戻る。

個人的には、プーチンの立場から見た「正義」に一理あるとしても、米国の起こした戦争と論理的には同じことをしているとしても、その目的の正当性が、手段としての戦争を肯定してはいけないと考える。つまり、事実として戦争に外交的側面があるとしても、現代に生きる我々は、それを否定するべきだと考える。

しかし、仮に戦争を外交手段と、そう考えるのであれば、そこには敵に強要するべき目的があるはずだ。

これが戦闘の勝敗で単純に決まるものではない。つまり、勝てば官軍とは限らない。正しくは、より多くの注目と賛同を集めた方が勝つ。世界の注目を集め、世界中の国民の一般的な意見がどういうものになるのか。そこに注意しないと、戦闘で街を灰にしても、戦争に負けることになる。アメリカによる20年に及ぶアフガニスタンへの関与が失敗したのを、世界は見たばかりだ。

つまり、戦術的な勝利が、必ずしも戦略的な勝利を約束しないということだ。

ユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」にある「虚構を信じる能力が現生人類を最強たらしめた」という説を思い出す。「ロシアにも一理ある」という人は「正義は人の数だけある」と当たり前のことを言っているに過ぎない。それをどう世界に共感させるかが問題で、プーチンはそれに失敗している。ゼレンスキーは、自分と国民の命を張って、彼らなりの「正義の物語」をこしらえた。プーチンは、その「物語」に敗北するのだ。


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