見出し画像

ロックダウンのNZで 甘えきった為政者と怠惰な大衆の共謀関係を考える

ニュージーランド政府がロックダウンを発表すると、大体、翌日の職場の主な話題になる。

今回は、会見の翌日からロックダウンになったので「翌日の職場」はなくなってしまったわけだけれど、そうでなければ次の日はそれで話題は持ちきりだっただろう。それはつまり、国民のほとんどが、政府の発表をリアルタイムで、真剣に、聞いているということだ。

同時に、日本の人たちは、日本政府の発表を、どれだけ真剣に聞いているだろう、と考えた。

政府の会見と情報

私はニュージーランド政府の会見を聞くとき、当たり前だが「自分の生活と行動に直接必要かつ有益な情報」を期待している。

今回の例で言えば、ロックダウンのレベル、適用される日数、制限はもちろん、確定している陽性者の数、それらが滞在した場所と日時、ワクチン接種の継続可否など、具体的な情報を注意深く聞き取って、自分の生活に直接があるものを選別し、自分の行動に反映する。

実はここ数日間、少し喉が痛かった。市中感染のない状況であれば、少しの喉の痛みだけでPCR検査を受ける動機は小さくなる。しかし、今回の話を受けて、念のため仕事を休んで翌日に検査を受けた。

あと、スーパーでいつもは飲まないワイン買ってきました。

こうやって、ニュージーランド政府の会見は、ごく自然に私の行動を変化させた。ニュージーランド政府の出す情報は、目的と優先順位が明確で、必ず国民へのメッセージが織り込まれていて、出した情報とそれに伴う政府の行動は一致している。

これを、最初の一件が発生した2020年の3月からずっと、コツコツコツコツ積み重ねてきた結果、政府は国民から一定の信頼を得て、明日!国を!ロックダウンします!と突然首相が言っても、粛々と国民がそれに従う事態となっている。

これは、民主国家としては驚異的なことだ。

民主国家のジレンマ

ロックダウンは、どう言いつくろっても国家権力による「自由の侵害」でしかない。統制国家ならいざ知らず、曲がりなりにも「自由」を旗印にする民主国家は、原理的にこのジレンマから逃れることはできない。

今回のパンデミックでは、当初「人の流れを止める」以外に対処療法がなかった。ワクチンの出現は、重症化を抑制する効果が保証されれば、大きな進歩だが、ワクチン接種を国民に強いる、となるとやはり同じ問題に突き当たる。だから、どの民主国家も対応に苦慮しているのだ。

17日のニュージーランド政府の会見によると、当日午後にCovid-19の新規(デルタ)株が強く疑われる市中感染がたった1件確認されて、その翌日から最強レベルのレベル4ロックダウンに入った。海外メディアは、これを驚きをもって報道した。

たったの!一件で!ロックダウン!とは大げさな!という驚きが表面上あるにせよ、民主国家であるニュージーランドが、なぜこんなに唐突な「権利の侵害」を簡単にできて、国民がそれに粛々としたがっているのかが不思議なのではないだろうか。

一応、動機を説明すると、これまでの市中感染がゼロであったことと、依然として低いワクチンの接種率が、今回のスナップロックダウンを行う強い動機となった。早いうちに、大きく強く、が昨年からの教訓だったから。

島国だから?人口500万だから?昨年の経験があるから?ロックダウンを強制できる法律があるから?

確かに、そのどれもがロックダウンを「簡単」にはするけれど、冒頭に述べた民主国家のジレンマを本質的に「解決」するものではない。これらは他の国にとって同じことが「簡単」でないことの「要因」にはなるけれど、ロックダウンが不可能である「原因」と考えることは間違いだ。

強権があるからロックダウンできる、は短絡だ

確かに、ニュージーランドには、ロックダウンを可能にする法的根拠(強権)がある。でも、その強権を振りかざしているから、こんなに簡単にロックダウンができるわけではない。そんなことをしたら、その国はもはや民主国家ではなく統制国家になってしまう。

サッカーで負けそうになったからといってボールを手でゴールに投げ入れて「こうすれば勝てる!」と叫ぶバカはいないだろう。俺たちはサッカーをしているんだよ。

ニュージーランド政府が、民主国家としてロックダウンを強行できるのは、強権を発動する権利を枠組みとして持ちながら、国民に説明し、説得し、要請する手間を惜しまず、また、政府自身が言行一致することによって、その裏に嘘がないことを国民に証明し続けているからだ。

日本政府は、言葉を持っていない。

この「note」のホームページに、下記のような専門家たちの「有志の会」による情報が掲載されているのをご存知だろうか。

私は、これが不思議でしょうがなかった。政府のアドバイザーである「旧・専門家会議」や「分科会」あるいはその構成員は、ソーシャルメディアに独自に情報を出すべきでないはずだ。何が公式情報かわからなくなってしまう。

国民に対して行政責任を負えないアドバイザーたちが、なぜこんな危険なことをしなければならないのか。それは、責任を負える唯一の主体である日本政府が、国民に対して、説明するべき科学的な情報と、説得のための言葉を持っていないからだろう。

「自粛」を「要請」などという語義矛盾を放置し続け、行動の抑制を呼びかけながら、それに伴う保証を強くアナウンスせず、緊急事態を宣「言」しながら世界中を集めた運動会を「行」い、葉と動を常に「不」一致させてきた。そうやって、国民との相互信頼を毀損することを繰り返してきたのが、日本政府のやってきたことだ。

政府の言行不一致によってリーダーシップとガイダンスを失った国民は、それぞれが、狭い範囲の情報のみで個別の施策の「是非」を判断しようとした。当たり前だが、個別の施策の是非が、事前にわかるわけがない。それらは、いつも結果的に、歴史的に判明することだ。でも、暫定的にでも、結論がないと不安なので、誰もが白黒をつけようとしてソーシャルメディアには空虚な是非論がはびこった。

その結果、オリンピックの是非とか、ロックダウンの是非とか、PCRの是非とか、ワクチンの是非とか、野戦病院の是非などと言って、素人である国民同士が個別の施策の「是非」を巡って対立し、堂々巡りを繰り返して時間を浪費し、医療現場だけが疲弊して、為政者は今でも「空気」に向かって「要請」を繰り返している。

誰がそんな政府の会見に「自分の生活と行動に直接必要かつ有益な情報」を期待するだろう。誰がそんな為政者の言葉を、真剣に聞くだろうか。

マシュマロは我慢できない。

政府が国民に語りかける言葉を持たないことに危機感を持てず、かつ、考えることを諦めた者たちは、結果がでないことを「強権の不在」に求める。そうする方が解決が簡単に見えるからだ。為政者が汗をかかずに国民をコントロールする能力があれば、万事解決すると思ってしまう。

甘えきった為政者を怠惰で愚鈍な大衆が更に甘やかす、共謀関係が完成する。

強権を発動すれば全てが解決すると思っているその短絡さと、浅はかさ、そして、稚拙さ。これでは、目の前に置かれたマシュマロを我慢できない児童と同じではないか。

「最後の最後の手段」とか「食べるかどうかは別」と言いながら、とにかくマシュマロを出せ!と叫ぶ。でも、置かれたマシュマロが1つしかなければ、それを食べるしかないではないか。

これは、実に危険な兆候ではないだろうか。

刮目するべきは言葉を持っているかどうか

ソーシャルメディア・大手既成メディアの双方に流れる「ニュージーランド政府の対応の評価」を観察すると、人口が小さいとか島国だとかロックダウンはやりすぎだとか、素晴らしいとか、羨ましいとか、首相を交代してほしいとか、そういう現象の結果に対する感想ばかり言われている。

なんども言うように、個別の施策の是非を、前提や条件の違う国同士で比較しても仕方がない。

しかし、どんな施策をとるにせよ、政府がリーダーシップをとってそれに国民が協力する、という図式に変わりはないのだから、ニュージーランド政府が、民主国家が直面するジレンマに「丁寧な対国民コミュニケーションで築いた信頼関係を担保に行動抑制を実施する」というジンテーゼを提示しているこそ、刮目するべき点ではないだろうか。

たくさんの方々からサポートをいただいています、この場を借りて、御礼申し上げます!いただいたサポートは、今まではコーヒー代になっていましたが、今後はオムツ代として使わせていただきます。息子のケツのサラサラ感維持にご協力をいただければ光栄です。