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ウクライナの旗

総力戦と市民の犠牲

軍隊は国土や市民を守るためにある。しかし、二つの軍隊同士が戦えば、いずれ勝敗は決まる。その過程で、他国の侵略から自らを守り抜くと決めた国は、総力戦になる。総力戦は、街を瓦礫にし、一般市民を犠牲にする。

現在、ウクライナはまさに総力戦にある。ウクライナ国民の男子は、一般市民を含めて銃を取り、国を守ることを要求されている。総力戦を決めたのは誰か。直接的にはゼレンスキー大統領だろう。

では、彼は国のために国民を犠牲にしているのだろうか。

ハインラインの視点

ロバート・A・ハインラインの「宇宙の戦士」というSF小説で、宇宙陸軍の機動歩兵である主人公が、学生の時の座学授業を回想するシーンでこんなのがある。

デュボア先生は切り株のような腕をさっと振った。−中略−
「”価値”には、二つの要素がある。第一に、人があるものによってどんなことができるか−すなわち、そのひとにとっての”利用価値”だ。第二に、人がそれを手に入れるために何をしなければならないか−すなわち、その人にとっての”原価”だ。−中略−
価値あるもので無料のものなどない。呼吸さえ、出生児の激しい努力と苦しみをもってのみ手に入れることができる。」

[新訳版]宇宙の戦士 ロバート・A・ハインライン著 内田昌之訳

続いてデュボア先生は、授業を聞いている学生のころの主人公に、100m走の金メダルをもらったら幸せになるか、と問い、はぐらかす主人公に紙きれで作った「金メダル」を渡す。体育で四着だった主人公は、バカにされたと感じて紙切れを投げ返して怒る。するとデュボア先生がこう言う。

そのとおり!一着のメダルは君にとってなんの価値もない……なぜなら、自分で勝ち取ったものではないからだ。しかし四着になったことで、きみはささやかな満足感をおぼえている−それは自分で勝ち取ったからだ。−中略−
この世で最高のものは金を超越している。その対価は苦しみであり汗であり献身だ……そして、この世ライフでなによりも貴重なものを得るために必要な対価とは、ライフそのもの−完璧な価値をえるための究極の犠牲だ」

[新訳版]宇宙の戦士 ロバート・A・ハインライン著 内田昌之訳

ウクライナでの戦闘が始まったとき、この小説が与えてくれた視点が、突然、現実のものとして目の前に立ち上がってきた。

「お国」と「戦争反対」と「この自分」

かつて、大日本帝国は世界中を相手に戦争をし、最後は原爆を2つ落とされて300万の国民を殺された。にもかかわらず、戦後、日本国はその一般市民を殺した張本人である米国と同盟関係を結び、緊密な友人となった。

私は、中学生として初めてこの歴史を学んだとき、不思議でしょうがなかった。何百万人もの国民を殺されて、どうしてその当事者と1年と経たずに同じ方向を向いて歩き出すことができたのだろう。1945年8月15日までは「一億火の玉だ」と行っておきながら、同じ年暮れには「戦争反対」などと、どうしてそんなに簡単に変わり身ができたのだろう、悔しくなかったのだろうか、と。

その答えは簡単で、国の戦争指導者を「戦犯」と呼んで悪者にしたからだ。

そのことの是非はここでは論じない。しかし、少なくとも中学生の私はそう結論づけた。国を率いていた人が悪い奴らだったから、国民が戦争に巻き込まれて犠牲を出したんだと考えればいい。そして、復興支援を伴った米国の占領統治の成功が、その言説に説得力を与えた。

戦中、国体こくていを守れと言われ、「お国」への犠牲を強いられ、目の前の困窮した生活に苦しんできた国民は、敗戦と占領を、基本的には歓迎したのだ。

そういう認識を持つ人は、国が自分と一心同体であるという考え方を理解できないし、そういう考えを嫌悪する。あくまで、国家とは「この自分」が個人としてその自由を行使し、安全な生活を送ることを保障する装置だと考えるのだ。

言うまでもなく、これはリベラリズムの考えだ。現代の、日本を含めたいわゆる「西側」の国では、人々がこのような考え方をするのは一般的だろう。

しかし、我々が当然のこととして享受しているこの自由で安全な「リベラルな社会」は、決して無料で手に入ったものではない。今のウクライナの状況で、ウクライナに簡単に降伏や妥結を求める人は、そのことが全く分かっていない。

リベラルなのはいい。ニュージーランドに移民した私自身も、その恩恵を受けている。しかし、自由と安全は、自分の意思とは無関係に、脅かされることが、現実に、あるのだ。そして、自分とその愛する者の自由と安全は、自分の命と同じくらい大事なものではないだろうか。

彼らにとって、国とは民そのもの

戦争初期、総動員令が敷かれ、ウクライナの一般市民に武器が配られていた。

動画の人たちの表情に勇ましさはない。彼らだって、できれば銃を持って戦うなんてことはしたくないだろうし、国のために命を捧げる、というヒロイズムに陶酔しているわけではない。では、なぜ彼らは銃を配る列に並んだのか。大統領令があったからだろうか。

私はそうは思わない。

1ヶ月前までの彼らは、我々と同じように、国家が個人の自由と安全を保障するべき世界にいた。しかし、国そのものが危機に瀕してしまえば、そんなものは雲散霧消してしまうことも、彼らは理解していた。

そして、もし運悪くその危機が迫ってきたら、自分が貧乏くじを引くしかないこと、そして、そのことがこれまで自由と安全を享受してきたことと完璧に対になっていることを知っていて、その責任を果たすことをただ、受け入れたのではないだろうか。

そうでなければ、ゼレンスキーがいくら「銃をとって戦え」と言ったところで、逃げ出す人が続出したに違いない。なにしろ「この自分」の命がかかっているのだ。「お国」のために命を捧げるなんてまっぴらさ、となるはずではないか。

今、ウクライナの人たちにとって、国とは自分自身であり、決して「お国」ではないのだ。もちろん、国民のひとりひとりが、全員、とは言わない。中には、意見を異にする人もいるだろう。幼子を抱えて、国を守るどころじゃない人たちもいるだろう。

しかし、国と自分の運命を一体と考えていない人たちが守る国が、世界第二位の軍事力を持った国に包囲戦を挑まれて、1ヶ月も持ちこたえられるわけがない。彼らは、彼ら自身の意志で、国を守りぬくと決めたのだ。

ウクライナの旗

ゼレンスキー大統領が国を守る、と言った時、それは同時に国民の意志となった。美談などでは決してない。単なる、起こらなくてもよかった、クソのような悲劇である。しかし、危機はやってきて、戦うと決めて、実際に彼の地で命を遣っている人たちがいる。

小説にあったように「自分が手に入れられるもっとも価値の高いものとは、自分自身の命と等価である」という真理を、彼らは理解しているのだろう。

一方で、自由と安全がどこからか降ってくると信じている人たちには、今のウクライナの風景は、大統領の個人的な「崇高な信念」のために国民が犠牲になっていると映るのかもしれない。

世界中を連帯させる物語が、核兵器より強力であるとするならば、ゼレンスキーは、できることを全てやっていることになる。

瓦礫になった街に、ウクライナの旗がひるがえっている。

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