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五月闇自宅警備員は猫かぶり

昨日は予定通り猫の日だった。俳句関係の本を少し読んだぐらいか。怠惰な日である。生活力がないんだな。それで漠然と思ったことなど。やっぱ俳句は生活だと思う。芸術性よりも生活第一。それは芸術性は自ずと培われてくるが、生活は毎日の必需だからだ。俳句もそのようにありたい。漠然と思ったのは蕪村より芭蕉の方が好きなのかもと思ったのだ。無論、蕪村の俳句も好きなのはあるが、芸術至上主義になるとちょっと違うのではないかと。

芭蕉は生き方の問題。俳句的生き方を追求していきたい。その中で技術論とかテクニック的なことはあるが、まず第一は俳句的生き方を追求していきたいということだった。

それで今まで参加していたコミュニティを辞めた。それは生活の違いがあると思ったからだ。句作の違いもある。目的意識の違いかもしれない。正直に書くと楽しめなくなってきたということ。その理由は俳句観の違いだろうか?俳句観と言っても今日考えたことなんだが。

その一つが芭蕉の生活俳句を目指す。それは俳句という生き方の問題である。そこから、やはり俳諧という諧謔性が必要だと思う。批評精神というものなのか、変化を求める気持ちというか。今の社会や生活に不満だから表現活動をしているのである。不満がなければ何もこんなところで表明しなくてもいいのだった。

俳句的生活はそんなところだが、今日やるべきことは「シン・俳句レッスン」と俳句雑誌『角川 俳句』を読んでしまおう。返却しないと本が借りれないから。とりあえず性急に読みたい本があるわけでもなく、読む本も整理しなければと思う。二箇所の図書館に10冊づつ借りている。それに電子書籍も渋滞している。なお部屋には相変わらず積読本ばかりである。

とりあえず優先的に読むのは『源氏物語』と『魔の山』(100分de名著があるから、世界文学関係)、短歌は西行(『新古今集』関係)、俳句は多行俳句の追求、詩は宮沢賢治。こんなところか。随分あるな。あと電子書籍は『未来のイヴ』を読んでいる。

映画は今日は夜の予約。パレスチナ関係。あと映画の感想が書きかけだった。そしてWOWOWの韓国映画はそれほど面白くもなく途中で寝ていた。Amazon Primeで松本清張原作『張り込み』をみている。1950年代の映画でこの頃は日本もまだ戦後の風景で今と全然違うから興味深い。

今日の一句。

五月闇自宅警備員は猫かぶり 宿仮

五月闇は造語かと思ったら季語としてあった。夜のことなんだが、これは昼間の俳句だった。夜も変わらないのだが。多行俳句を忘れてしまうな。多行俳句にするのは意識的に定型を壊すためなんだが、なかなかうまく行かない。短歌への橋掛かりという感じになってしまっている。俳句も短歌も同じような短詩として作っているからな。短歌の方はもう少し感情が入る感じか?

五月

自宅警備員は

かぶり

こんな感じか?今日の一首はここから発展させる。

五月闇
自宅警備員は
猫かぶり
無色透明
空っぽの夢

闇でもないか?無色透明ならば白日夢のような。

白昼夢
自宅警備員は
猫かぶり
空っぽの夢は
闇となりけり

自宅警備員は俗語だけど工夫が欲しいかな。

白昼夢
ぶらりぶらりと
猫の尾は
空なる夢と
五月闇来る

時間性を出してみた。

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