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名所でない桜

羽ばたきの気配があって、そこだけ花びらが舞った。
惜しいことに、私の知識のなかに、その鳥の名はない。

鳥が落とさずとも、あと数日のうちに花はすべて地のものとなる。
すこしだけ早まった落花を、桜自身惜しいと思うだろうか。
それとも、そんなことは大差ないと笑い飛ばすだろうか。

ここ数年、あえて花見に行かなかった私だけれど、母のいる老健の行き帰りには必ず桜のもとを歩いた。
公園でも寺でもない。
いわゆる桜の名所というものでもない。
花のない夏も秋も冬も、人々が暮らしている街の日常に、あたりまえに存在する桜。
そういう街の花が、私は好きだ。

これは2019年の母の老健への道すがらの桜

一昨日、川沿いの花を撮っていたら、高そうなレンズを構えた老紳士がやってきて「もうすこし行くと電線が入らずに撮れるところがありますよ」と親切に教えてくださった。

だけど。
電線や金網や、ベランダに干された布団や洗濯物を、私はそれほどムキになって写真のフレームから排除しようと思わない。

自然というものに対して、あるときは慈しみ、べつのときは憎み、護ったり抵抗したり和んだり恐れたり、そのときどきで相反する感情で対峙する。
人と自然との対立と共存の矛盾が、私が花を愛でる根底にある。

花は時が来れば散り、実を結び、枯れてもなお、いのちをつなぎ、次の春にはまた美しい姿を披露するが、人はそうではない。
儚いのは桜ではなく、人のほうなのだ。

小さく嫉妬しながら、鏡の中の花を見る。
光の中の花を見上げる。
通りすがりの人々が、同じように足を止める。
おそらくは、この見知らぬ人たちそれぞれに、去年と違う花見があることだろう。
花だけでなく、見上げる人々の、その日常の営みもまた美しいと思う。

たぶん、よその家のベランダにはためく洗濯物を見られることは、幸せなのだ。
フェンスの金網が、去年よりすこし錆びていることを確認できるのは。

名も知らぬ鳥が羽ばたき、ひらりと花が舞う。
母の着替えを入れた手提げ袋の上に留まったひとひらを、そのまま連れて帰ったことを思い出す。

「孤高の桜」が好きだと友人は言った。
誰にも待たれず、観られず、人知れず咲き、人知れず散る潔さに惹かれると言って、毎年その桜を撮りに行っていた。

私は、そのとき、こんなふうに返したと思う。

でもね。
孤高に見える桜も、本当は、毎年、あなたが撮りに来るのを待っているのかもよ。
あなたが撮るときは、すこしだけ頬を染めるようにその色が濃くなっているのかもよ。


読んでいただきありがとうございますm(__)m