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note写仏部活動中⑭鑑賞編(下)✧♡

 さらに前書きを追う。

 日本では、地上的な汚れと人間的な感情を超越することは。むずかしいことではないのです。人間はもともと「天地(あめつち)」から生まれたもので、自然は、もともと「汚れ」も人間的な感情もない、という認識があるのです。母親から生まれる赤児は、神=自然の存在と考えられました。「穢れ」も大人の感情もない存在だったのです。人間として生活する中で「汚れ」を感じたとき、日本人は神社で御祓いを受けるのです。西洋人のような、一生罪を背負って生きる宗教的な教えはなかったのです。

「日本国史の源流~縄文精神とやまとごころ~」田中英道 まえがきより

 ヤスパースはギリシャ哲学や中国の道徳と同時に、仏陀の仏教、ユダヤ教、ゾロアスター教などの宗教もあげ、いずれも文字で書かれたものを評価の対象にしている。

 しかし、ヤスパースは日本に関してはこの広隆寺の「弥勒菩薩像」のなかに、ほかの文明にない、かえってそれ以上の日本の思想を読み取っているのです。《真に完成されきった人間実存の最高の理念が、あますところなく表現しされ尽くしています》とは、自然の絶大さに人間の卑小さを感じ、謙虚になり、しかしその秩序の中に自然道があると確信しているのです。
 キリスト教徒は「一神教を選び、その神を自然の上に置く宗教とともに、人間存在の本当に浄化されることは神とともにあることだと信じています。しかし神から離れれば、また地上的な感情の汚れを残した人間とならざるをえないと感じています。本当に人間実存の奥底にまで達しえたものではない」といっているのです。日本人からいわせてもらえば、その神でさえも、人間の感情や欲望のなかに存在するのだということになります。
 日本は神よりも自然を前に置くためにそのような考えを持たないのです。それが共同宗教の神道=縄文の精神といえるのですが、そこに個人の存在を認識したのは、個人宗教の仏教を受け入れたからなのです。そうであるからこそ、この「弥勒菩薩」像にそのことが表現されているのです。あくまで、人間の自然の存在をつきつめていけば、このような姿になる。そこには立派な形而上学があるのです。
 縄文の思想、つまり日本人がすべて感じ、信じている共同宗教の上に、仏教の個人宗教が自覚されたからこそ、仏像という形象に集約されたのです。それが、まさに「やまとごころ」の表現ということができるでしょう。
 形象表現が思想を表す、という事実を、ヤスパースはこの「弥勒菩薩」のエッセイのなかで示しています。こうした観点がなければ日本の思想は語れないということを知っているようです。日本は形象学(フォルモロジー)がなければ歴史は解けないことを言っているように思えます。

広隆寺「弥勒菩薩」

 この本のまえがきを、本当にすべて投稿しそう。魅力的過ぎて。

 人間にとって文字表現だけが思想表現ではありません。西洋思想がギリシャ美術、ルネッサンス美術の理解なしには理解できないのと同じです。文字というものが、二次元的な表現であることを知っていた日本人は、日本に入ろうとしていた中国語やヘブライ語を簡単に受け入れませんでした。おそらく、千年は見て見ぬふりをしていたと思われます。

 ここ、めっちゃ、ウケた( ´艸`)
 日本って何でも受け入れて、換骨奪胎してきたのかと思いきや、千年は見て見ぬふりをしていた( ´艸`)
 凄い。長いものには巻かれろ!で一見巻かれても全く受け入れない日本。キリスト教の定着率めっちゃ低い。ただ、GHQの強引なやり方には、呑み込まれて、誤魔化しているうちに、すっかり元の歴史を忘れた感じ、ある。

文字というものが、二次元的な表現であることを知っていた日本人

 なんだ?これ?
 この辺、高木先生や、星野廉さんが詳しそう!( ´艸`)丸投げしたい!
 どういう意味ですか?
 私にわかるように説明していただけないかと💖

 日本人は六世紀以降、帰化人の急激な増加によって、漢語を話したシナ人系、秦氏系の人々から漢字を導入し、彼らの語彙を工夫して日本語にしていったと考えられます。(このことは言語学者によっても、まだよく解明されていません)。口承の会話で一万年以上過ごしてきた日本人はようやく、記録したり、他人と約束を交わしたりするために、文字の必要性を感じるようになったのです。そして文字を使うようになるとまもなく「万葉集」や「古事記」という最小の形式の文学的表現で、すぐさま高い表現域に達することになりました。これも形象表現ですでに高い域に達していたからだといっていいでしょう。

 口承の会話で一万年以上過ごしてきた日本人・・・ 

 我々が今2024年に居るが、文字が出来てからが、まだ少ない。
 どうやって文字が無くても過ごして来た?
(きっとnoteも存在しない( ´艸`))
 ちょっとここから縄文時代のショーゲンさんの話に飛ぶ?
 
 自分をまず満たす。
 自分を満たしたものが他の者を助けられる。
 今日、誰のために生きる?という挨拶。

 縄文時代を探り、聖徳太子の時代を探ることは、日本人の大きなルーツになる。写仏しながら、歴史を勉強しながら、また、自分でも漫画や絵を描いて、死者や目に見えないものと繋がりながら、この謎を突き止める。

 上手い下手じゃない。
 写したものから日本の歴史に近づく。
 体験しないとわからない。

 体験しないと腑に落ちないから、創って考える。
 言葉だけじゃダメ。

 体験だ(⋈◍>◡<◍)。✧♡