薊詩乃/Azami Shino

関西の劇団《るるいえのはこにわ》(https://www.rlyeh-hakoniwa…

薊詩乃/Azami Shino

関西の劇団《るるいえのはこにわ》(https://www.rlyeh-hakoniwa.com )主宰・脚本・演出 /ショートショート、日記など /BOOTH→(https://azami-shino.booth.pm )

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【自己紹介風】薊詩乃という現象について

薊詩乃の現実態を知る人たちが増えてきたので、 改めて自己紹介というわけだ。 薊詩乃(Azami Shino)は精神思念体である。 それは物質というよりむしろ現象に近い。 悪徳としての創作意欲によって、どの面提げて創作する非人間である。 小劇場演劇的戯曲の執筆をし、 それに演出をつけているのが今の主な活動である。 他にもnoteでは短編を書いていたし、 クトゥルフ神話TRPGのシナリオ執筆経験もある。 新たな作品も近日中に公開されるだろう。 しかし未だ何者でもない。 誰

    • 崇拝【前編】

       怪物だ──  男は、その歌声を聴いてしまったがために、殺人さえ犯してしまった。  セイレーンに殺された船乗りの気持ちを理解したと思った。もし、オデュッセウスがこれを聴いていたなら、ただちに自らを縛る縄を千切り捨てていただろう。腕や脚がもがれることになろうとも、いま私がしているように、彼女のために手を合わせ、頭を垂れる他ないだろう。  男は、他の聴衆と同じようにケミカルライトを振ることも、コール&レスポンスをすることもできなかった。あやうく失禁しそうだった。彼女の歌は、彼

      • もっと上手な生き方があると思っているだけ

        雨の影響でなんだか肌寒い日が続いているが、思い出したようにまた暑くなるのだろう。梅雨が始まると、今度は蒸し暑くなる。雨の音は好きだが、雨は好きではない。外に出るのが憚られるからだ。濡れるし。どうして「傘」というものは、全身を完全に雨粒から守るようにできていないのだろう。かといって雨合羽は面倒だし。 この時分はあまり楽しくない。楽しいと思って過ごしていたことも大してないのだが。そうしてふと、この台詞を思い出した。 これを思い出して、「演劇は楽しいからしているんじゃない。ただ

        • 人間なんて、不良少年、それだけのことじゃないか。

           『文豪たちの悪口本』を読んだ。  冒頭に引用した「殺すぞ」は、中原中也の発言である。  中也は、その発言をしながら「中村光夫の頭をビール瓶で殴った」という。なんで?  挙句それを怒られると「『俺は悲しい』と泣き叫んだ」ようだ。もうメチャクチャだ。なんだこいつは。最高。  しかし、この本のおもしろさはそれだけではない。  悪口名言集みたいになっているのは前半だけで、中盤からは、手紙や日記の長い引用が増えていき、「悪口」という点から見た文学史のおもしろ本といった

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        マガジン

        • 薊詩乃の短編
          42本
        • 小説未満・エッセイ・その他
          81本
        • 自己紹介・宣伝
          17本
        • ケイコバ2023
          4本
        • 人間農場・エピソードゼロ
          6本
        • 暗がりのスポットライト
          2本

        記事

          無関心領域

          映画『関心領域』を観た。 われわれの関心と無関心を突きつけられるような作品だった。ときにホラーより怖ろしいと思うのは、これがまったくのフィクションではないからだ。 さまざまな花が咲く広い庭。しかし家の塀の向こうには収容所が見える。遠くから断末魔が聞こえる。しかし主人公一家は無関心を貫いている。 無知であるのではない。無関心であるのだ。 収容所で何が起こっているのか知っていて、それに関心を払わないでいるのだ。 知らずにいることは、無責任ではあるものの、そこまで深刻な悪

          「その形である」ことの意味

          小説は小説である意味がある。 映画は映画である意味がある。 その形である意味がないのなら、それは生み出されるべきではなかったのだろうか。 TRPG(テーブルトーク・ロール・プレイング・ゲーム)とは、参加者がゲーム内のキャラクターを演じながら(ロールプレイをしながら)遊ぶアナログゲームである。 私は、その中でもクトゥルフ神話TRPGというものが好きである。プレイヤーは、おぞましい神話の神々や怪物たちの恐怖から逃れ、ときに立ち向かい、生還を目指すシステムである。 クトゥル

          「その形である」ことの意味

          無視する。

          やる気がないとき、やる気のない自分を無視する。 生きたくないとき、生きたくない自分を無視する。 悪いことがあったとき、その悪い過去を無視する。 将来への不安があるとき、来るべき未来を無視する。 どのみち生きるということは生きる以上の意味がないのだから、自分のためにならないことは無視してしまえばいい。 これは批判を撥ね退けるということではないし、自省しないことでもない。障害は乗り越えたらいいが、妨害する奴は無視したらいい。 これは一種のセルフ・マネジメントだ。プロと

          沈む身体

          人生はターン制のゲームである。キャラクターごとに性能に差異があり私は一日で1ターンしか持っていない。 実際のゲームなら、行動回数が少ないというデメリットを補えるような、優秀な能力を持っているものだ。強力なスキルを使えたり、攻撃力が高かったり。 だが私は出来損ないのほうの性能をしている。誰もプレイヤーキャラクターとして選択しない。パワーカードではない。 ベッドへ身体が沈んでいく── 考えないことは健康によい。ただ情報が行き交うさまを目と耳で感じているほうが気楽だ。精神的

          夜は静かな月の女王【ショートショート】

           窓の外からは何も聞こえない。私はこの時間が好きだった。邪魔するものがない、一人だけの時間……。これが最後の夜。アンドロイド破壊プログラムも、朝までには完成しそうだ。  静かであることはいいことだ。月面コロニーから発せられる街の灯りが宇宙を泳ぎ、黒い空を少しばかり白く照らしている。夜空に喧騒は似合わない。カフェイン錠を吸収せずとも、この美しさ、この静けさは、じゅうぶんに私を睡眠から遠ざけてくれる。「月が出ている間は地球上での戦争行為を禁ずる」という条約のおかげだ。 「手が

          夜は静かな月の女王【ショートショート】

          誰も〈精神分析〉なんか振ってくれない

          映画『ミッシング』を観ました。 すごく良かったです。 でもほんとうにツラいです。 ※この記事は、映画『ミッシング』のネタバレを含みません。 『ミッシング』は鬱映画であり、胸糞映画でもあると思う。 だがしかし、時折、いくつかのシーンにおいて幻想的とも言えるほど美しいライティングで魅せてくれる作品でもある。 そのため、単に不快感を愉しむ映画というわけでもない。 最近の映画といえば『胸騒ぎ』も胸糞映画、鬱映画として評判が上がっている。あれも中々に観ていて苦しい映画だった。あ

          誰も〈精神分析〉なんか振ってくれない

          無限スクロール

          上へ流れていくのは道理に背いている。けれどそれが自然なのだ。 水が川上から川下へ流れるように、時間も上から下へと流れる。 その時間に耐えられなかった誰かが、タイムラインを止めてしまった。 それは自然なことだが、不自然なことでもある。これからの不自然を要求するという点で、時間に逆らったことになるからだ。 テッド・チャンのいくつかの物語がそう示す通り、人間には自由意志がなく、未来が予期されてしまっては、人間は人間性を失う──タイムラインが止められることはずっと知っていたの

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          『君のクイズ』を読んで、人生の肯定について考えた

          ※本記事は、『君のクイズ』のミステリ要素についてのネタバレは含みません。 『君のクイズ』。 以前話題になった、検索サジェストに「つまらない」が出てくる哀しき小説である。そんなひどいことしなくてもいいのに、と思う。 引用したように、「0秒押し」に負けてクイズ番組での優勝を逃した主人公が、その秘密に迫っていく物語である。 たしかに、物凄いフックである。物語最初の一段落もとても美しいし、冒頭から引き込まれる。しかし、本作でもっとも重要なのは、そのミステリではない。 これは

          『君のクイズ』を読んで、人生の肯定について考えた

          宿命論

          因果は廻る──牢に入った彼女のもとへ、彼は一度として面会へ赴かなかったが、それはこの思想によるものだった。自業自得だ。 宿命というものがあるならば、彼女が罪をおかしたのもまた宿命だ。彼女の行動よりも、からだや精神の仕組みのほうが、罪深く造られていたのだ。 そのため、彼女は罪とはなにかを分かっていなかった。心神喪失というわけでもなかった。彼女は陶酔し、美化し、自惚れていた。刑に服しているが、罰とはなにかも同様に知らなかったので、牢にいる意味もないのだろう。 「仕方がないの

          囚人のカルペディエム

          時は流れる。 あるべきものはあらざるものになり、 足るものは足らしめられるべきものになる。 凍える背中を抱いていた者がいなくなったとき、彼女の身体は夏のにおいを纏っていた。 彼女は駅前のフラワーショップに行けなくなった。思い出と恨み言が脳裏から剥がれなくなるからだ。 とくにカーネーションなどは、名前を聴くだけで心臓が止まりそうになる。 美しいだけの日々ではなかった。殴られたことはなかったが、その人のせいで地元に残らざるを得なくなったのは事実だった。 それでも今、カ

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          他言語というコワさ──『落下の解剖学』と『胸騒ぎ』から

          言葉が伝わらないのは心細く、怖い。 最近観た二つの映画『落下の解剖学』『胸騒ぎ』に、ともに「主人公が自由に扱えない言語」に関する描写があった。それが、それぞれの作品の本質を貫く要素であったので、軽く備忘録程度に書いていきたい。 観ていない作品だったならば、2本とも両手を挙げてオススメはしにくいがとてもよい作品だったので、是非上映館にも足を運んでほしい。 ※本記事は映画『落下の解剖学』および『胸騒ぎ』の重大なネタバレは含んでおりませんが、事前情報無しで映画を楽しみたい方は

          他言語というコワさ──『落下の解剖学』と『胸騒ぎ』から

          それはある種のセカイ系といえる

          誰でも、誰かひとりでも自分を肯定する者がいてほしいと思っている。 愚か者もそうである。 悪人もそうである。 その愚かさや悪事を、同じような愚者や加害者が肯定したところでそれが間違っていることには変わらないのに、愚かさや悪事がきれいに善性へ転換したように錯覚するのだ。 詐欺師が犯罪を慰めるようなもの。薬物販売業者が薬物の安全性を訴えるようなもの。悪辣な同業者は、同じ悪徳を許し合おうとする。 それが社会的な通念とは剥がれていることは分かっている。心の底では知っているが、「

          それはある種のセカイ系といえる