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シュラーク

※注意! 今回の短編小説には残酷な表現、グロテスクな描写が含まれますので、苦手な方は閲覧にご注意を願います。


 街にはシュラークという魔物が巣くっている。人を殺し喰らう怪物だ。
 シュラークを見たことがある、と鼻息荒く豪語する大人は多い――どういうわけかシュラークは大人にしか見えない――大人は子どもが悪さをすると「シュラークが来るぞ」と脅しつける。子どもはそう言われてもシュラークを見たことがないから、見たと言い張る子どもが現れると、その子はたちまちほら吹きにされてしまう。
 でも、シュラークはどんな魔物なの、と訊くとまちまちの答えが返ってくる。年老いた、とある辻の角にある煙草屋の二階に住むある男は、巨大な蛇だったと語り、街一番のお屋敷の家政婦として働く中年の小太りのある女は、ニワトリの体で、頭が猫だったと語った。つまり、シュラークがどんな魔物か、見たことのあるはずの大人さえ定かには知らないのだった。
 僕はこのシュラークにひどく興味をそそられ、個人的に調べている。学校の夏休みの自由研究として発表しようかとも思ったが、この研究成果は独り占めしておきたいと思った。
 この土地に人が住み始めてからもう千年は経つらしい。記録が残っているのは八百年前くらいからだが、その頃の貴重な文書など子どもの僕には見せてもらえない。せいぜい調べられて図書館の貸し出し禁止の郷土資料程度だが、六百年前には「シュラーク」の名が登場する。登場するが、「シュラークが出た」、「シュラークが誘拐し、食った」などの曖昧な記述ばかりで、シュラークがどんな魔物なのかははっきりとは掴めなかった。
 雲のような魔物だな、と思った。見上げればふわふわと手の届きそうなところに漂っているのに、けっして手が届かない存在。
 そうして僕がシュラークについて調べ始めると、それに呼応するかのように三人の人間が命を落とした。みんなシュラークの仕業だと噂して恐れていた。僕は目撃談が多数残っていることから、みな生還しているということだと思った。噂に反してシュラークとは大した被害をもたらさない魔物なのではないかと考えていたところだった。
 だが、シュラークは噂を現実にした。
 まず一人目の被害者が、利光という名前の、裏通りに住んでいた頭は悪いけれど人のいい男だった。利光ははらわたを食い荒らされた無惨な姿で発見された。
 次の犠牲者が、花屋の看板娘の咲が焼け死んだ。顔を切り刻まれ、焼かれた状態で発見された。
 そして四日前、僕の弟の賢治が姿を消した。
 街にはシュラークが現れた、シュラークを見たという噂か本当か分からない情報が錯綜し、パニックになった住民が市役所や警察署に雪崩れ込むという混乱具合だった。
 事件について、僕なりにまとめてみた。
 利光という男は、腕力には自信があったので、街中の神社仏閣を巡る人力車の運転手として働いていた。人力車の運転手、という仕事は誰も事業としてやろうと考えなかったので、運転手は自営業として行っていたけれども、街の人たちは利光が難しい確定申告などできるはずもないと思って知恵を絞り、みんなで出資し合ってあるバス会社が事業として人力車業を立ち上げることとなった。利光はそこに所属する会社員ということになる。
 仕事ぶりは真面目で、気の利いた会話こそできないものの、朴訥とした受け答えはむしろ誠実そうだ、と好評で、口コミでも上々の評判を得ていた。都会や他の地方からわざわざ利光を指名してくる客もいるくらいだった。しかも欠勤はおろか遅刻も早退も一切ないとあって、会社としては非常に優秀な社員だった。
 だが、この男には正邪の歪んだ道徳意識をもつ、という隠れた一面があった。
 僕の父は書店を経営していた。あるとき商店街で万引きの被害について話題に上ることがあった。僕は父の店が好きだったから、許せないと根気強い調査と追跡を行った結果、利光に辿り着いた。奴は本など転売が容易なものを万引きし、隣、あるいはその先の街まで行って売り払い小遣いを稼ぐということを繰り返していたのだ。
 僕は利光に動かぬ証拠を突きつけ、やめるよう直談判した。このときは僕も利光の善良さというものを信じてしまっていたのだ。善良さなど、世間を欺く仮面に過ぎないとも思わず。そして半死半生の目に遭わされて証拠も奪われた挙句、利光のことを喋れば、今度は家族諸共殺してやると脅された。利光ならやりかねない、と思った僕は口を噤むしかなかった。
 だから僕はシュラークに願った。利光をこの世から消してくださいと。
 ある夜更け、街がすっかり寝静まった頃、シュラークは塒からそろそろと這い出して、夜の街を風のように駆けて利光のアパートの前に立った。
 利光は夏の間、窓を常に開けて寝ているので、進入は容易だった。
 利光の寝室はリビングの奥にあった。裏通りの安アパートだから、部屋数はそれしかないし、寝室の鍵などという上等なものはついていないので、シュラークは簡単に利光の枕元に立つことができた。
 利光は白いランニングシャツにブリーフ姿で腹を出して、地鳴りのようないびきをかいて眠っていた。
 シュラークは利光の腹黒さを罪だと考えたので、彼の腹目掛けてその牙を突き立てた。
 うむ、と利光が唸って、苦悶に表情を歪めて目を開けたので、逃がすまじとシュラークは何度も執拗に牙で食らいついた。
 利光はほどなく絶命し、満足したシュラークも姿を消した。
 翌日腹を切り裂かれ、臓物を尽く引き出された上にそれまでズタズタに切り刻まれるという凄惨な現場を見た会社の係長は、発狂せんばかりに悲鳴をあげたという。
 次の被害者の花屋の咲は自他共に認める看板娘だった。花よりもなお花のような可憐な笑顔で、男性のみならず女性の心も次々と撃ち抜いていった。文学青年だった肉屋の長男は、都会でも見たことがない、という比類なき彼女の美貌に骨抜きにされ、思いつめた挙句自ら命を絶っていた。しかも都会の大学に通い、そこで好成績を修めながらも、家業の花屋を継ぐため、と帰郷した孝行娘で通っていた。
 さすが大学に通っていただけあり、花の知識はすぐに身に着け、その上で元々習得していた教養を活用した。つまり花に北原白秋や谷川俊太郎などの詩を引用してみせる気の利き方を発揮したのは、彼女の素養によるものが大きいのだろう。
 その美貌と才智ゆえに、いい家柄からの熱心かつ彼女に有利な縁談がひっきりなしに舞い込んでいたが、彼女はどういうわけかどの縁談にも首を縦には振らなかった。
 それというのも、咲には歪んだ性的趣向があったからだ。一定の年数以下の少年にしか性的興奮を覚えない、異常性癖の持ち主だった。おまけに面食いで、顔や体つきの好みにもうるさかった。日がな外を走り回って日焼けしている、肉付きのいい少年ではなく、家にこもって本を読むのが趣味のような、色白で華奢な中性的な少年を好んだ。そう、僕のように。
 僕は三年前から彼女に見初められ、その玩具となっていた。性のなんたるかを知る前から、快楽だけを頭に叩き込まれた。彼女の与えてくれる餌は何でも食べた。彼女は僕が興奮し、快楽を得るほどに得難い愉悦を味わうようだった。僕は友だちの家に遊びに行く振りをして、花屋の裏手に回るとビールケースを積み重ね、彼女の部屋の窓を叩いた。そうすると彼女は嬉しそうに微笑んで、「ああ、わたしの小さなロミオ」と僕を呼んだ。
 でも、彼女は僕が成長してくるに伴って、特に僕は背がよく伸びたこともあって、次第に遠ざけるようになった。窓を叩いても、「帰ってよ。ああ、カメレオンのよう。気持ち悪い!」と悲鳴をあげかねなかったので、慌てて逃げ帰った。
 僕は彼女なしには、もう肉体が命じる欲求を開放することが叶わなくなっていた。だが、咲は絶対にもう僕に振り向くことはない。咲は抜け目ない猛禽類のように、次の哀れなすずめを見つけ出していたのだ。僕が望むものは、どうやっても手に入らない。ならいっそ……。
 だから僕はシュラークに願った。咲をこの世から消してくださいと。
 シュラークは咲が都会へ遊びに行く日を狙って、彼女の帰りを待ち構えた。最寄駅から花屋までは、人気のない廃工場の跡地横を通らなければならない。
 シュラークの目論見通り、咲が廃工場跡地の横を通りがかったとき、工場跡の脇から飛び出して彼女の口を塞ぐと工場跡地の中に引きずり込み、押し倒して馬乗りになった。
 シュラークは咲の仮面である美貌を罪だと考えたので、その顔を切り刻むことにした。
その牙で彼女の自慢の顔に一すじ傷をつけた。彼女は恐怖と絶望に打ち震え、目には恐れよりも怒りや憎悪が満ちていた。
 シュラークは歓喜に震えながら、二つ、三つと傷をつけているうちに止まらなくなり、気づいたときには傷とみみず腫れの様に捲れて膨れ上がった皮膚のせいで畑の畝のようになっていた。それでもなお彼女は絶命せず、裂けた唇を血まみれの芋虫のように蠢かせてシュラークを呪詛したので、シュラークは彼女を引きずって行き、元焼却炉まで連れてくると、街の不良たちが火遊びして残していったライターを使って彼女の顔を火で炙った。肉と血の燃える臭いが立ち込め、彼女の絶叫が響き渡ったが、焼却炉は工場をかなり奥にまで入ったところだったので、人に聞かれる心配はなかった。もっとも、人通りなどほとんどない道だったけれど。
 咲の顔が炎に包まれる頃には、彼女は絶命していた。シュラークは満足し、姿を消した。
 彼女を最初に発見したのは、僕だった。行方不明になって二日目、駅員の証言で彼女が街に帰ってきていたことが判明すると、捜索隊が組まれた。そこに僕も参加し、彼女の帰宅の通り道には廃工場跡地もあるよな、と思い至って、立ち寄った。既に大人たちが探索した後だったが、僕は焼却炉の前に辿り着き、扉を開けた。そこは開けたぞ、と大人に怒鳴られたが、僕は構わず炉の中に入り込み、藁で隠されて寝かされていた咲を見つけたのだった。
 そして最後の被害者は、僕の弟の賢治だ。僕より三つ下だが、次男坊の如才なさというのをしっかりと身に着けていて、僕なんかよりもよほどうまく家の中でも学校でも立ち回り、いつでも友だちに囲まれているようなタイプだった。必死に勉強している僕よりも頭がよく、運動神経も抜群だった。だから家では常に賢治が褒められたし、賢治が言うことに嘘はないのだ、と僕の両親だけでなく、大人たちはみんなそう信じていた。
 かといって兄である僕をないがしろにするということはなかった。賢治は自分が褒められるたび、僕のことを持ち上げて、周囲に僕の良さや功績を知らしめてくれた。そうした謙虚さが一層大人には好ましく映り、僕も褒められる一方で、「自慢の弟をもったな」といつでも大人たちから言われるのだった。
 しかし賢治には、自分の影響力を推し量り、試そうとする歪んだ好奇心があった。たとえば人がどれだけ自分の言うことを信用し、自分の思い通りに動くか、というような。
 以前、僕が道端で死んでいた鳥を近くの公園に埋めてやったとき、賢治は近くで寝泊まりしていたホームレスの男に何事かを耳打ちし、それを聞いた男が傲然と僕をぶち、足蹴にし、「弱者をいたぶるのはクズだ!」と叫んでいた。賢治はにやにやしながらその場を後にすると、街の大人を二人連れてきて、その二人はホームレスがどれだけ僕がひどい奴で、賢治に言われたからやったんだと主張しても殴り続け、警察に引きずられていった。
 賢治は倒れた僕のところにやってきて、後ろ手に楽しそうに見下ろしながら、「言葉の真偽すらはかれない人間が大人だなんて、笑っちゃうよね」と言い残して口笛を吹きながら去って行った。その曲がスイスの民謡の「おおブレネリ」だった。
 咲が発見されてから三日後、賢治は唐突に僕の部屋に来て、「シュラークを見つけた」と思わせぶりに言った。
 僕が「本当か」と訊ねると、自信ありげに頷いてみせ、「これが証拠だよ」と白い包みを開いて、血の付いたナイフと街外れのラブホテルのピンクのライターを見せた。「これがなんでシュラーク?」と理解できずに訊ねると、「兄ちゃん、本気で言ってるの」と信じがたいものを見たような目で見つめると、「まあいいや。これを大人に見せればはっきりするよ」とやはり口笛を吹きながら部屋を去って行った。
 僕はシュラークが見つかってしまうことを恐れた。シュラークは謎のままだから存在価値があるのだ。僕はここまで調べていってそれが分かった。シュラークの真の発見は、この街からシュラークを退治することになる。
 だから僕はシュラークに願った。賢治をこの世から消してくださいと。
 シュラークは僕の家に易々と入り込み、賢治の部屋の戸を開いた。
 賢治はぐっすりと眠りこんでいた。家中の人間はみな眠り薬によって深い眠りの底に横たわっていた。ちょっとやそっとの物音では浮かび上がってこられないような深い眠りの海だ。
 シュラークは賢治の口に布を猿轡にして噛ませ、両手両足を縛って、シーツで包んで担ぎ上げ、用心深く周囲を窺いながら闇夜の街中に飛び出す。街の中の闇という闇を渡り歩くように、物陰を素早く駆けると、街外れの用水路に出る。この用水路にはザリガニが大量に生息していて、僕や賢治も友だちとザリガニ釣りに興じることがあった。
 シュラークは虚言を弄する賢治の口こそが罪だと考えたので、口を封じることにした。
 シュラークは布の覆いを取り、猿轡を外した。だがシュラークにとって予想外だったのは、賢治が起きていて、シュラークの指に嚙みついたことだった。死から逃れようと渾身の力を込めた一撃は、シュラークの親指の付け根を裂き、大きな傷を負わせた。その上で賢治は叫ぼうとしたので、シュラークは慌てて前もって集めておいたザリガニを口の中に押し込んだ。
 一匹、二匹、三匹。増えていくたびに、狭い口中でザリガニのストレスもたまり、はさみを振り上げて挟んだりして暴れた。シュラークには黒い塊が口という暗闇の中で蠢いているようにしか見えなかった。
 賢治は吐き出そうともがくので、四匹目を押し込んだところで頭と顎を挟んで押し、無理矢理口を閉じた。声にならない悲鳴が全身から迸っていた。海老のようにのたうっていた賢治だったが、やがてその動きも緩慢になっていき、身を丸めて動かなくなったので、シュラークも手を離した。賢治の口の中からは断裂したザリガニの体がこぼれ出たが、一匹だけ生き残っていたらしく、もそもそと逃げ出した。
 賢治は既に絶命していた。シュラークは満足したので、「おおブレネリ」を口笛で吹きながら賢治の体を用水路に流した後、姿を消した。

 僕は自分の記録を読み返して初めて、シュラークという魔物の真の姿を知った。親指の傷跡は化膿してぐずぐずになってきている。黄色い膿が絶えず垂れていて、耐えがたい、獣のような、卵の腐ったような臭いが常に部屋に立ち込めていた。
 だが、僕は信じ切れずにいた。僕がシュラークだと。いいや、むしろシュラークであってはならないと強く信じた。
 だから僕はシュラークに願った。僕をこの世から消してくださいと。
 シュラークは、まだ来ない。

〈了〉

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