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何もあてにしない。悩むのは無駄。

自分の人生における「不安」というものについて考えてみた。
持たざる(モテない)人生を貫きまくってしまっており、仕事、お金、将来・・と、若い頃は不安でしょうがなかったものだけれど、最近全然無いな、不安。

何年か前に「自己防衛おじさん」というネットミームが流行った。ネタとしての秀逸さもさることながら、短い街頭インタビューの中で、あの 35 歳男性は「先行き不透明な時代の処し方」みたいなものを見事に言い切っていたように思う。

「国なんかあてにしちゃだめ」。
全くその通りで、不安・不満というものの裏側には、世の中・システム・他者等々、自分以外の何かを「あてにしている」「期待している」という甘えの心理が潜んでいる。

ところで、「貧乏は嫌だ(でも頑張りたくない)」「痩せたい(でも食べたい)」のような、一方の願望の裏側にもう一方の矛盾する感情というものがある。
これもかなり甘え過ぎた考え方で、この心理を悪用した胡散臭い詐欺ビジネスがいつの時代にも繰り返し繰り返し蔓延っている。
頑張らないで成功する? 好きなだけ食べて痩せる?
絶対に「無い」から。
覚悟を決めてどちらかを選び、どちらかを捨てるしかない。


不安の話に戻そう。不安で心配ならば、その不安の正体と原因をブログでも note でも新聞のチラシの裏にでも書き出して、合理的に然るべき行動を選択して「がんばる」しかない。

「この悩みから解放されたい。でも何もしたくない。できれば何の努力もせず、何も失う事もなく、全てが思い通りになったらいいのに」

なる訳ないだろう。その悩みに向き合いたくなくて現実逃避したくなる気持ちも分かるが、赤ん坊じゃないんだから。
問題を解決するためには、勇気を出してその問題と向き合わないと何も始まらないし、永遠に解決しない。

別に意識が高いとか精神的に強いからこういう考え方をするのではない。
自分でコントロールできない事や、まだ起きてもいない事にオロオロと悩んでいても事態は1ミリも改善しないどころか、精神衛生的に危険ですらあるからだ(危機意識が無さ過ぎるのもどうかと思うが)。


それと、不安や心配の種は「あって当たり前」「死ぬ時まで付きまとう」くらいに思っている。むしろ「一生、不安と寄り添って生きていく」みたいな考え方もある。
大体、どこまで行けば「安心」なのか?どれだけ満たされたら「満足」するのか?
バブル期以降、「先行き不透明な時代」などと流行歌の歌詞にも囁かれたりして久しいが、そもそも「先が見通せる時代」など有志以来あったのだろうか。
基本的に「明日どうなるか分からない」のは原始時代から変わらないのだ。


確実に訪れる自分の死がいつなのかすら分からない。常にお先真っ暗である。ぼくらは全員、先の見えないトンネルを、死という出口に向かって一直線にひた走っているようなものだ。
明日、大地震に襲われるかもしれない。明後日、交通事故を起こすかもしれない。来月に大病が見つかるかもしれない。来年の今頃は心の病に罹っているかもしれない(これは交通事故よりも確率が高い)。その先に孤独で貧しい老後が待っているのかもしれない・・云々。


そんな事を考えてもしょうがないだろう。そして実は、明日の会社だの、来週の試験だの、今月の締め切りだのの、ほぼ確定している未来についても同じ事が言える。
まあ、人間なので考えてしまう(想像してしまう)のだけれど、良い方向に進むように然るべき行動を選択していくか、起きてしまった時にどう対処すべきなのかを想定しておく他ないだろう。

「備えあれば憂いなし」「人事を尽くして天命を待つ」という、至極当たり前のオチになってしまったが。

万全に備えて十全に人事を尽くしても足りなかった時は?
「その時はその時さ」と開き直るつもりでいる。

この悪態ぶりは詩と歌の世界を際立たせる為に必須なもののようにも思える

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