【エッセイ】息を飲むこと滑ること、その覚書

だくだくと本を読む。言葉を咀嚼し、粒になってもなお咀嚼し、完全にペースト状になるまで噛み潰し、改行も空白も句読点もエクスクラメーションマークもルビも飲み干し、ざらりと舌に残る感触を確かめ、一本だけメンソールが入ったニコチンとタールの重い煙草を吸うと、また新しい本に手を伸ばす。上から下に、右上から左下に、視線を素早く動かし、また言葉を噛み砕いて飲んでいく。ラピッド・アイ。まるで自分にはそれしか残されていないかのように、周りの声も半分ほど残ったドトールコーヒーショップのアイスカフェラテのSサイズも喫煙席の濁った空気も入ってこない。だくだくと、これをだくだくとと表現しないでどう表現すればいいのだろう、とにかく際限なく泥水のような言葉が視界に流れ込んできて、その濁流をすべて飲み下すように虹彩は収縮と弛緩を繰り返す。一つ一つは確かにフィクションだろうとノンフィクションだろうと物語の体裁を保っているはずなのだが、言葉はうねりを成し、物語と言うにはあまりにも濃密な虚構となって(たとえそれがルポルタージュであっても、書き散らされた言葉は書かれたその瞬間に虚構になるというのは、あまりにもよく知られた圧倒的な事実である)、肉体に吸収されていく。言葉は連なりになり、連なりはある種の暴力として、姿を現す。その暴力の暴力性すらも、私はまばたきで食べてしまう。
本を読む。私は紙魚同然の生きものになる。

この頃、食欲がない。ほとんどコーヒーと煙草とサラダとレクサプロによって生き繋いでいる。レクサプロは私から自死という選択肢を薄らげてくれるが、それと引き換えにあらゆる欲求を排除する。
レストランに連れていかれる。メニューを見ているときは、確かにどれも鮮やかでおいしそうだと思うのだが、その中から惰性でどれかを選ぶ(どれを選んだとしても、私が皿にのったすべて食べきることなど到底不可能だと分かりきっているためだ)。私は気づく。私がメニュー表を見ておいしそうだと思っているのは、写真ではない。むしろ、写真の載っていない、明らかにワープロソフトで作られたようなメニューの、「純喫茶のナポリタン」だの、「なんとか豚の生ハムのせなんとかエッグベネディクト」だの、そういう文字列で胃袋はいっぱいになり、きらきらしい想像は膨らむが、実際に運ばれてきた湯気の立った温かい料理は、私の想像の範疇を出ないばかりか、むしろ、なんでこれがここにあるのだろう、という疑問へと変わってしまう。
サラダはいい。サラダ、という文字列を見て、私が想像する、まるでサラブレッドの飼料のような、申し訳程度に色とりどりで栄養たっぷりらしい、サラダらしいサラダ。俵万智が『サラダ記念日』のあの一首を書いたとき、実際に食卓に並んだのはカレーライスだったらしい。
それでも、まともな食事をしないと両親に叱られてしまうので、疑問符ごと食事らしい食事を口に詰め込み、胃に詰め込み、トイレで吐く。吐瀉物はヴィヴィッドな色合いで、自分はこんなにヴィヴィッドな色のものを詰め込んだのかと思うと、また気分が悪くなる。

音楽はつまらない。TwitterもYouTubeもTikTokも装飾過剰で速度依存。汚言症と正義かオモシロか自虐かナルキッソスかポルノ依存症そのものしかいない。メッセージを送りたい友人もいない。コーヒーも煙草も実はおいしくない。食べ物は気持ち悪い。精神安定剤は一度にたくさん飲めばすぐなくなるし、本当は、本当は、本なんて。

本なんて。

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