daily-sumus note

画家、著述家、装幀家、古本憑き。著書に『喫茶店の時代』『ふるほんのほこり』『古本屋を怒…

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画家、著述家、装幀家、古本憑き。著書に『喫茶店の時代』『ふるほんのほこり』『古本屋を怒らせる方法』『本のリストの本』『本の虫の本』など。編著に『喫茶店文学傑作選』。装幀本に『書影でたどる関西の出版100』『花森安治装釘集成』他多数。

最近の記事

フョードルもミハイルもありふれた名なので、ロシアには大量のフョードル・ミハイロヴィチがいる

フョードル・ミハイロヴィチを主人公とした「公園」「食堂車」「精神科医の診察室」「トルコ式浴場」の四篇が収められている。主人公と言っても、普通の意味での主人公ではなく、それぞれの物語にも直接の繋がりはない。それはどういうことか、ここで説明してしまうとネタバレになってしまうので省略。本作は直に読み始めるのがベスト。 と言いつつ、タイトルについてだけ書き留めておく。「フョードル・ミハイロヴィチ」は作家ドストエフスキーの「名前+父称」である。ロシア語では、親しい間柄ではない相手に対

    • 詩集を読む者は、それこそ詩集の一部として編み込まれている

      時里二郎『名井島』(思潮社、2018年)の感想をかつてブログに書いたことがある。現代詩文庫の『時里二郎詩集』が届いて改めてその記事を読み返してみたのだが、時里作品の斬新なる虚構性についてそれなりにうまく表現しているように思えた。よって、ここにふたたび引用しておきたい。なお『名井島』については全篇が本文庫に収録されている。 *** 時里二郎『名井島』(思潮社、二〇一八年九月二五日、装幀・装画=望月通陽)読了。実は、この作品を繙く直前、『フィリップ・K・ディックの世界 消える

      • 私が目下ジャズワークショップとやっている考え方には楽譜というものがない。

        チャールズ・ミンガス「直立猿人」のアルバム(初版は1956)を近所のエンゲルスガールというレコ屋さんで買った。かつて、あるジャズ名曲アンソロジーのCDに「直立猿人」が入っていて、すごい曲だなあと感嘆したことがあった。それ以来このアルバムが欲しいと思いながら、わざわざ探してまで買おうという気持ちもなく、いつか出会えばという感じで何年(十何年?)かが経っていた。 ジャケットアートも素晴らしい。作者はフリオ・デ・ディエゴ(Julio de Diego, 1900-1979)。マド

        • 京都の丸善で 外国の絵本をのぞき 新書や文庫本を五、六冊買って イノダ珈琲店へ行き ゆっくり買った本のおくがきを読み 永正亭でそばを喰べて 帰る

          先日、余波舎/NAGORO BOOKS にて開催中の「佐伯義郎作品展」を見たが(〜26日まで)、そのときに購入した『風の肖像 佐伯義郎画集』を眺めている。 佐伯義郎作品展 https://sumus2018.exblog.jp/31051402/ 余波舎/NAGORO BOOKS https://x.com/nagorobooks 孔版とエッチングを組み合わせた版画は色調が独特で素敵だ。絵画や彫刻の他に詩や短いエッセイ、童話なども収められており、もともとが国文科だから上

        フョードルもミハイルもありふれた名なので、ロシアには大量のフョードル・ミハイロヴィチがいる

        • 詩集を読む者は、それこそ詩集の一部として編み込まれている

        • 私が目下ジャズワークショップとやっている考え方には楽譜というものがない。

        • 京都の丸善で 外国の絵本をのぞき 新書や文庫本を五、六冊買って イノダ珈琲店へ行き ゆっくり買った本のおくがきを読み 永正亭でそばを喰べて 帰る

          私はこのようにして旅がすきになり、いまも各地をあるきまわっております

          古書善行堂の古本山脈から掘り出した一冊がこちら宮本常一『村の社会科』。少年向けに書かれた民俗学へのいざない。よく噛み砕かれた文章は読みやすく、目から鱗の話が多い。 例えば「墓地」。墓は八百年ほど前から供養塔として作られ始めたが、江戸時代になるまではさほど多くはなかった。 といったふうに現代の常識をやさしく覆してくれる。 また序文「はじめに」では父親の思い出から語り始めている。 宮本常一は晩年、武蔵野美術大学で教鞭を執っていた。私はちょうどその時期に入学したので宮本の民

          私はこのようにして旅がすきになり、いまも各地をあるきまわっております

          現在もなおわたくしを感動させるものといえば自由という一語を除いて他にはない

          本書は『時計の中のランプ La Lampe dans l'horloge』(ROBERT MARIN、1948)初版に収められているエッセイ「時計の中のランプ」、トワイヤンの扉絵、ラコスト城でのブルトンの写真、そして「人間戦線」の公開討論会でのスピーチを翻訳・再構成したものである。 訳者松本氏は巻末「訳者解題」において翻訳出版の動機をこう書いておられる。 戦後のブルトンを取り巻く状況についてほとんど知識がないため、本書の二つの文章(ひとつはスピーチの記録)は小生にとっては

          現在もなおわたくしを感動させるものといえば自由という一語を除いて他にはない

          雪舟、写実を突き詰める

          京都国立博物館で開催中の特別展「雪舟伝説─「画聖」の誕生─」を観覧した。雪舟の主要作品を集め、さらにそれらが後世の絵師たちにどのような影響を与えたか、実作によって示そうという試みである。 学生時代に(五十年近く前です)雪舟の「秋冬山水図」を初めて見たときは「すごいな」と心底思った。その後、折に触れ、雪舟の作品に接してきて(むろんガラス越しですが)、しばらくぶりにまとめて見たわけだが、ほとんど感動らしきものはなかった。 まず第一に、あまりに画面が綺麗すぎる。保存修復の技術が

          雪舟、写実を突き詰める

          わたしは三十五人目か三十六人目の図書館員だった

          リチャード・ブローティガン『愛のゆくえ』(青木日出夫訳、ハヤカワ epi 文庫、2002年8月31日)読了。正直なところ『愛のゆくえ』は新潮文庫の表紙が印象的だ。黒い地に七色のハートが浮かび上がっている(靉嘔の作品)。この表紙が好きでずっと持っていたのだが、十年ほど前の引越しのときに処分してしまった。 先日、ある古本屋の均一にハヤカワ epi 文庫版が出ていたので、買って帰って読み始めると、思わず引き込まれてしまった。文章が単純なこともあり、短い章の積み重ねでストーリーを編

          わたしは三十五人目か三十六人目の図書館員だった

          遊歴中珍書奇冊など有之候はゞ時としては食指を動し申間敷も難計

          本棚の入れ替えをしていたら『吉田松陰書簡集』がひょいと現れた。ずいぶん前に新潟へ旅したとき、カバンにしのばせて列車や宿舎で読み耽ったことを思い出す。そのときのメモが挟んである。古本屋が登場する記述を拾っているので、ひととおり写しておく。 嘉永4年は22歳。4月9日に江戸に到着して安積艮斎や佐久間象山らに師事しながら鳥山新三郎らと交わっていた。兵学実地研究のため東北を旅したのもこの年である。勧農固本録は下記のような書物で広く流布していたようだ。ただしそれが有用か無用かは知らな

          遊歴中珍書奇冊など有之候はゞ時としては食指を動し申間敷も難計

          さっそく夾算(栞)を作ってみた

          思い立ったが吉日。『枕草子』に出ている夾算(栞)を作ってみた。材料は手打ちそば店で供された割り箸である。食後に捨ててしまうのがしのびないのでもらって帰っている。それで何本か試みてみた。 鉋(かんな)で削れるかと思ったのだが、細すぎて、普通の鉋ではちょっと無理。切り出しナイフを探すも見つからず、そこで、ノミでやってみたら、まずまずきれいに削れた。 『枕草子』では『古今和歌集』だったが、まともな本を持ち合わさない。よって手近にあった歌の草子ということで『六帖詠草』(小沢廬庵家

          さっそく夾算(栞)を作ってみた

          二藍・葡萄染などのさいでの、おしへされて草子の中などにありける

          少し前に『枕草子 紫式部日記』から紫式部日記のごく一部を引用したが、今回は枕草子のなかで栞の登場しているくだりを引いてみたい。 まずは二十三段に夾算(けふさん)が二度出てくる。天皇が女房たちに古今和歌集の歌をどのくらい暗記しているかテストするというお話。先日、ある人気歴史学者がTV番組で、昔の人は古今集なんか全部覚えてましたというようなことを発言していた。まさか、そんなはずないでしょう、とテレビの前で突っ込んだのだが、やはりそんなことはなかったようだ。 宰相の君とあるのは

          二藍・葡萄染などのさいでの、おしへされて草子の中などにありける

          美しい古書を破いて包装に使いはじめるような、堕落退化した破壊的な時代なのですね。

          『チャリング・クロス街84番地』をまた久しぶりにもとめた。これまでの版については以前のブログに書いておいたので参照していただきたい。 チャリング・クロス街84番地 https://sumus.exblog.jp/19555406/ 以前のブログでは江藤淳の古本屋体験を紹介するだけで本文にはほとんど触れていない。そこで、今回は少しばかり本文から引用してみる。 改めて確認しておくと、1949年から69年にわたって、ニューヨークに住むヘレーンとロンドンの古書店員フランク・ドエ

          美しい古書を破いて包装に使いはじめるような、堕落退化した破壊的な時代なのですね。

          あの絵は御覧の通り署名することが出来ませんでした。病床には、いつも自分の画を置いて、見詰めておりました

          京都のみやこめっせで開催されている春の古書大即売会へ。初日につづき二度目。雨の初日とは打って変わった快晴。汗ばむ日和だった。初日に迷って買わなかった木版画を探して見つけ出す。幸にも売れていなかった。セット版画をバラした一枚なのでためらったのだが、そのセットを買うとすれば、きっと何万円もするのだろうと思い直した。 これで目的は達したので、ゆっくり、のんびり、ぶらぶら歩き。来場者はかなり多いが肩が触れるほどではない。すると、ある店で近代美術の絵葉書が詰まった小ぶりな箱に目が止ま

          あの絵は御覧の通り署名することが出来ませんでした。病床には、いつも自分の画を置いて、見詰めておりました

          私は自分の本を人から請はれるとき、今までに喜びを感じたことが一度もなかつたが、このときに殊に気がすすまず、元気なく署名をした。

          横光利一の『覚書』の装幀は佐野繁次郎である。初版は昭和10年に沙羅書店から刊行された。本書と全く同じ文字だけのデザインだった(50部の特装本もある)。内容は、「純粋小説論」を含む、身辺随筆と文学についての随想を集めたアンソロジー。 「純粋小説論」は本人もよく分かってないような書きぶりなので略するとして、読んでいてピカイチだなと思った「嘉村礒多氏のこと」を引用しておこう。以下全文。旧漢字は改めた。一行開きは原文では改行である。 なんとも嘉村礒多の一筋縄でいかない様子が手に取

          私は自分の本を人から請はれるとき、今までに喜びを感じたことが一度もなかつたが、このときに殊に気がすすまず、元気なく署名をした。

          「少年倶楽部」の発行日には、学校から家に帰ってランドセルを投げ出すように置くと、硬貨をにぎってその本屋に走ってゆく。

          吉村昭『その人の想い出』には「私と書店」というエッセイが収められている(初出は『日販通信』1976.7)。吉村は東京の日暮里町に生まれた。小学校の近くの本屋で『少年倶楽部』を買うのを楽しみにしていたという。 この書店の描写は案外と貴重ではないかと思う。そして戦争が激しくなると新刊本が少なくなった。すると、吉村少年は古本屋をめぐり歩き、本を買い漁るようになる。 本を疎開したり、空襲で焼かれてしまったり、そういう話はよく読むが、庭に埋めて助かったというのは珍しいような気もする

          「少年倶楽部」の発行日には、学校から家に帰ってランドセルを投げ出すように置くと、硬貨をにぎってその本屋に走ってゆく。

          "ブルー・ポールズ"は門外不出なのであった。

          この『ポロック』、画集としてのクオリティは低いものの、収められた図版はいずれも、最近のノッペリとしたカラー印刷では決して見られない、鈍い美しさをもっている。ポロックってやっぱりいいなあ、と微妙に網点のズレた図版を眺めながらため息をつく。 だいたいにして画集のテキストほど面白味のないものはないのだが、本書もその例に漏れない。ただし挟み込みの「現代美術〈月報〉」(1963.11.25)に清水楠男(東京・南画廊ディレクター)が寄せている短文「ブルー・ポールズ」は当時のポロックや南

          "ブルー・ポールズ"は門外不出なのであった。