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身体に浸れる人は幸せになれる

長文ファンの皆様おはようございます。

最近「身体に浸れる人」は幸せな傾向にあるのではないかと考えています。

花が綺麗だ、これが美味しい、動いて楽しい、触れて心地よい。これらを言葉に変換せず、ただただ浸れる人です。人が幸福を感じているまさにその瞬間、なぜ幸せなのかを雄弁に論じることはあまりありません。要するに幸せは身体的なもので、非言語的なのではないかと思います。

「身体に浸る」は簡単なようでいて難しいです。正確に言えば簡単にできる人は簡単にできるのですが、できない人には難しい。

言葉は何かをラベリングしたものです。りんごという時、りんごと言われるグループ全体を指します。今目の前にりんごがあるとして、それはりんごグループの一つではありますが、いまここにある唯一無二のりんごでもあります。

他のりんごとは違う味かもしれませんし、違う色かもしれません。また私の身体の状態も今までと違うかもしれません。その意味では、今からリンゴを齧るのは、今までに一度もなく、これからも一度もない、一期一会の関係でもあります。

ところが私たちは日常に出会ったものを自然と言葉に置き換えています。むしろ言葉が先にあり世界を認識しているかもしれない。言葉が優先すれば、過去のリンゴを齧った体験で、この一期一会の感触を覆ってしまいます。

この身体を流れていく一期一会の瞬間の連続を、分析せずにただただ身を任せられることが「身体に浸る」ことであり「言語ではない世界」を感じることではないかと思います。そしてその時、人は幸せを感じやすい。

問題はこの手放し方です。特に現代は言葉が多く、思考の多くは言葉でなされている。この言葉を手放すわけですからなかなか大変です。

私はやはり夢中がまずあるのだと思っています。そして夢中の合間合間の弛緩状態に、一瞬非言語が訪れる。それを捕まえて世界を感じるわけです。

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