街録ch 戸塚宏校長の主張を徹底解説

街録chに戸塚ヨットスクールの戸塚宏校長が出演した。先日はAbemaTVの討論番組にも出演していたが、なかなかうまく議論が進まなかった。その回の解説記事もあるのでよければ参考にしていただきたい。
今回の街録chでもインタビュアーの人に強い表現でぶつかる場面があったり、何かインタビュアーの人が意見を言うと「リベラルに毒されてる」などと決めつけてしまって、それを言ったら全く議論にならなくなってしまうだろうにと思われる場面もあった。

ただ街録chは基本的に議論をする番組ではなく、インタビュアーの人もなるべく自分は引いて、その回のインタビュー対象の声を最大限に聞き取るというスタンスだ。そして尺も長いから存分に主張できる。
それは戸塚校長にも伝わっており、Abema出演時に比べてはるかに詳しく正確に視聴者に伝わったはずだ。よって今回の記事では若干の補足を行って、より理解を深めてもらう一助となればよいと考えている。

戸塚校長は、リベラルやそれを基本思想とするマスコミによって自分のやっていることや日本社会がめちゃくちゃにされているという思いがとにかく強い。
警察にも裁判官にも怒ってはいるが、それもマスコミが一方的な報道をするため、戸塚校長寄りの判断や処分をして叩かれるのを回避したいという思いが彼らの行動原理となってしまっているというのもわかっている。
もちろんマスコミなどという外野に叩かれようとなんだろうと、裁判官は法と証拠、良心のみに基づいて判断すべきというのが本来のはずだ。しかしその原則を貫徹できていない。だから戸塚校長はマスコミが悪いのはもちろん、エリートたちが意志、行動、人間性の面で一人前ではないと考えている。
校長による体罰の定義は、「進歩を目的とした有形力の行使」だ。子供の進歩が目的である以上、傷害自体を意図しておらず、傷害致死になるわけないというのが従来からの校長の主張だ。前例踏襲の裁判官は体罰の定義などという哲学談義を相手すること自体を問題的に感じたことだろう。被告人が考える論理を聞かず空気に押された判決を出してしまう。

こういったこれまでの経緯があるため、ちゃんと聞こうとしている相手にまで最初攻撃的になってしまう。

そもそも地上波などには自分を出演させない圧力が大手広告代理店からかかっていると以前校長本人が私に話していた。
であればネットメディアがわざわざ校長にコンタクトを取って、長い尺で話をさせて、かなり際どい発言までそのまま流されたことを考えれば、校長の思いをなるべく伝えようとしているわけで、敵視する必要はない。
発言を切り取られて潰された人ややらかした人まで街録chは同じスタンスで収録しているのを校長はあまりご存知なかったと思われる。


それでは内容の解説をしていきたい。
アメリカでノンフラストレーション児童がやばいという話が出てくる。子供に不快感を与えるのはかわいそう、虐待だという前提で子供を育てたことで、何年もしてまともな人間が育っていないことが後でわかったということだろう。
子供に不快感を与えるべきかどうかはまともに育つかどうかを基準に考えるべきであって、不快感を与えるのはかわいそうで、泣いてるからなだめて不快感を取り除いてあげるというのは近視眼的だと言う。このような近視眼的な発想を校長は戦術的と呼ぶ。それに対してその子供の将来のために長期的視野で、悪いことをした子供を殴るのは戦略的だと言う。戦術と戦略という言葉は番組中一度出てきていた。
そして校長の主張では戦略的思考は男の考え方であり、ゆえに教育は男の仕事だという。
女が近視眼的だというのは侮辱だと言う人もいるだろう。
事実はさておき、無前提に男女の行動様式や思考様式が同じであると決めつけることもまた科学的とは言えないだろう。
「男女の性質が同じだ」とか「叱るより誉めろ」とかはきれいごとにすぎず、それを発言する人間が自身を防衛しているだけだと校長は喝破する。

最近議論になったLGBT理解増進法で、子供たちに理解させる教育を早期から施すということに対して主に保守派から、もしくはもっと一般的で特に党派性のない常識的な人たちからも危惧が出ている。
まずは「自分が男だ」とある時期から意識したり、第二次性徴期にはより強く身体的にも自分の性を自覚する。そういった段階を経て安定する前から、少数者についての教育をしていくことが、安定した性的な自覚を棄損し、混乱をもたらすことになりはしないかという問題だ。
少数者の尊厳を守るということと標準を否定することとは同じことなのか、また成長発達の原理や実態を踏まえて現実的に考えるべき問題なのに、それを無視して秩序を破壊する形となりはしないか。その場合被害者は教育を受けた子供だ。ノンフラストレーション児童の問題と同じ系統の問題であるように感じる。

醜いイモムシと身動きひとつしないサナギ、そして美しく羽ばたく蝶は同一の実体だ。小さい蝶、中ぐらいの蝶、大きい蝶と成長発達するわけではない。
それぞれの段階にそれぞれ必要なものがある。
少数者への配慮ができる大人になるべきだからといって小さい頃からその配慮のミニマム版を教えるべきなのかということだ。
同じように、自分と対等な一人前の大人を殴って従わせるべきではないからといって、一人前ではない子供を殴って指導するのが悪いかどうかは必要な成長発達の本質に伺いをたてるべきだということなのだろう。


体罰は不快感を導く。そして不快感や恥こそが人間を進歩させる。「なにくそ」という怒りが進歩を促す。汚い感情の代表格とされがちな嫉妬という感情だって、「負けて悔しいから次は努力して勝つ」というように、感情を強く正しく使って進歩するのであり、すべての感情は使い方の問題だというのが戸塚校長の考えだ。
強い感情や強い意志、そして行動力によって人生の充実感を得る。

「不快感を与えるのは悪だ、虐待だ」とするのは単なる理念、思想、哲学だとして、これらは再現性を本質とする科学の反対物の単なる決めつけだという。
ちなみに私の考えではそんなものは本来のリベラル思想でもなければましてやコンプライアンスでも何でもなく、単なる「暴力的な表象」「残酷な絵面」への反射的な拒否反応にすぎず、謎の弱者への同一化だ。近年そのような脊髄反射は枚挙にいとまがない。

次に大和魂が科学的という話だ。
科学的という言葉と大和魂という言葉を結びつけるのは普段の我々の言葉遣いからはかなり違和感がある。
大和魂とはまず本能は善ということだ。それがきちんと作動するようにするのが大事だ。そのために体罰や洋上での命の危険を感じるウィンドサーフィンを通して、「生きるんだ」という本能をわきあがらせる。
そしてそれで不登校や非行少年を何人も治してきた。方法論に再現性があるのだからヨットスクールでの教育実践は科学だというのだ。
生意気で罪悪感もないふんずりかえった態度のガキが、当時30代の筋骨隆々で眼光鋭い戸塚校長に蹴りで海に突き落とされる。めちゃくちゃ怖い…
誰も助けてくれないことを悟って必死でヨットに這い上がろうとする。その時に生きようという力がわく。仮病などで逃げようとしても校長には全て見透かされる。逃げ道を塞がれれば誰だって身が引き締まり目が覚めて必死になるのだ。

いじめは善とも校長は言う。番組内では説明されていなかったが、いじめにも善いものと悪いものがあると言う。「見た目が気持ち悪い」とかどうしようもないことを言っていじめるのは悪だ。それに対していじめを受けることで弱い者が強い者に打ち勝とうとする強い意志を引き出すいじめは善だと以前校長は話していた。
そしてそのような環境で鍛えられるうちに無気力だった不登校児が学校に行けるようになったりする。

本能は善の他にもう一つは知行合一、行動が伴ってこそその知識に価値がある。これらが大和魂なのだ。
教育の目的について番組でははっきり言われなかったが、校長は教育を論理的思考力を養う知育、人間性を高める徳育、行動力を養う体育に分類する。
ゆえに行動力までを範疇とする大和魂こそが正しい教育論だというのが校長の主張だ。

中世において技術や力の面では日本より中国が上回っていたが、当時の凡才、今で言う偏差値秀才のような人間は精神論までを中国に習おうとした。つまり漢魂漢才で行こうとした。だがそこは和魂漢才でよいのだ。紫式部や菅原道真は天才だからそれを見抜いていた。
時代をずっと下って、戦後教育は和魂洋才で行くべきなのに、技術面だけではなく教育論や精神論までヨーロッパの受け売りをやろうとしたから失敗したのだと言う。凡才どもが洋魂を主張し、日本の教育をダメにしたという。ここでの凡才とは行動力も思考力もないリベラル偏差値秀才のことを指す。
それにしても日本では昔から、外国かぶれはくすぶったインテリ崩れの伝統芸ということなのか…

それにしても大和魂なんていう言葉は今や何かのネタレベルでしか使われない言葉だろう。そんなに素晴らしいならなぜそんなことになったのか。
それは第二次大戦で思いの外に自分達を手こずらせた日本が、今後アメリカに二度と逆らわないように、日本の精神論である大和魂の凄さに気付いて封印したのだというのが校長の主張だ。


また番組内で、「本能が大事」という主張を、「本能の赴くままにするのがよいということですか?」とインタビュアーが質問する。本能の赴くままというと悪い意味に聞こえるだろう。
腹が減ったらそこら辺のものを盗んで食うとか性欲が高まったら女を襲うとかすることなのだろうか。
校長は本能には促進と抑制があり、そのバランスが真に本能が発揮される状態なのだと考えている。
嫌がって泣き叫ぶ女を襲うのは、「さすがにこれはやめておこう。無理やりやるとか萎えて無理だわ」となるのが本来=本性なのだ。そんなことお構い無しにできてしまうとしたらそれは抑制の部分が壊れているのだ。正しく本能は発揮されていない。


次に「知恵遅れはハード面の異常だから治すのは無理」「強迫性障害、神経症、心身症、恐怖症は治せる」とのことだ。校長は「統合失調症もハード面だから治せない」と以前私に話していた。
要は「後天的なものは広い意味での教育の結果なのだからそれなら治せる」ということだろう。
本能の力を引き出して、強い意志が持てれば解決する。意志の薄弱さが昔の用語で言うところの神経症圏の症状を引き起こしているということらしい。

ここでインタビュアーは「発達障害を治せるということですか?」と質問する。彼は発達障害は本来脳の器質的問題、先天的なものなのだからハード面の問題であり、それなら治せないのでは?と考えたのだろう。「本物の」発達障害の理解としては正しいのだが、そもそも神経症圏の病気を発達障害の一種だというふうに彼は誤解しているようだ。
これに対して校長は神経症圏の、要はちょっと困った症状を呈している子供を昨今の精神医学は発達障害だと診断して各種優遇措置や障害者年金受給につなげようとしていると考えている。
校長は「発達障害を治せる」と発言するのだが、それはもちろんこのような「偽の」発達障害のことを指している。
実際幼少期のトラウマや愛着障害などで多動や注意散漫など、発達障害と似た症状を呈し、なかなか先天的か後天的かは判別しにくいのだ。
よって過剰診断が指摘されており、そのような偽物発達障害なら治せると校長は自信を持って言う。


さて最後にLGBTは悪という話だ。校長は生きる目的を種の保存だと言う。これもそれが本能だからというのが根拠であろう。国の発展を考えていないとも言う。
だが国の繁栄に資する行動は何も子供を作ることだけではないだろう。
例えば学校の先生をやって、子供たちを教えるのも立派に社会を保守していることになるのではなかろうか。
そして「あんなもんは殺してもええ」とまで言う。
これは間違いだろう。もしLGBTを殺してもよいという法律ができたとして、プルプルと震えながら「オカマ」が戸塚校長の前に連れてこられたとしよう。校長は一撃を自分の手でくだせるのか。校長にはそんなことできないと思う。それもまた本能だ。
そして自分ができないことを誰にやらせる気なのか。つまり知行合一の観点からも間違っている。
リベラル思想からではなく、大和魂の観点からもこの発言は間違っているのだ。今回の番組内の校長の発言では唯一の明確な誤りだ。
ちなみに数年前校長は「性的少数者は死ねとまでは言わないが、権利だなんだわめかずに大人しくしとればええ」と私の前で発言している。本当はかわいそうだと思うけど、秩序は秩序で大切だというのが校長の本音なのだと思う。

リベラル思想で育てた白人の娘が、結婚相手として黒人を連れてきて、結婚を反対する映画の話を校長がする。「何でも平等に扱えるわけないやろ」と。
インタビュアーは「本人が幸せならよい」と言う。
そんなものは嘘だと校長は考えているようだ。
もし本当にそんなこと思っているのならそれこそ真っ当な本能のバランス感覚が失われていると言いたいのだろう。
「結婚なんてしなくてもいいだろう。人の勝手」とか「人間関係なんてそんなに重要?」とか「夢なんてもたずに生きてて何が悪い?」その手の発言を聞くことが最近多くなっている気がする。
それが自由だと主張するのは構わないが、本能のバランス感覚の故障、敗北主義、やせ我慢の類いではないのならばよいのだが。
「それでいいんだよ。みんなそれぞれ違うんだから」という甘いささやきは本当にその人の幸福を祈っての言葉なのか。そういう時も確かにある。例えば頑張っても無理そうなとき。
しかしいづれにせよ甘いささやきには要注意だ。なんせ最後は誰も他人の人生に責任なんて取らないのだから。
きれいごとだけ言って、未完成な人間が量産されても文科省も誰も責任を取らないという校長の憤りも同じだろう。

戸塚校長と何度かお会いしているが、それは私に何かコネがあるのではなく、2ヶ月に一度都内でも座談会を開催しているからだ。たった数千円でじっくり校長と話すことができるので、興味があれば足を運ぶといいだろう。
私も久しぶりに行ってみようと思った。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?