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ドストエフスキー「地下室の手記」

「カラマーゾフの兄弟」については、2年ほど前にnote記事として感想文を4回に分けて投稿しました。
「地下室の手記」は、その前に残念ながら中途で読むことに挫折していました。
本来であれば、本書を読んでから「カラマーゾフの兄弟」を読むべきだったかもしれません。
逆になってしまいましたが、本書を読んで「カラマーゾフの兄弟」の登場人物の激しい性格の根拠を見出したようにも思います。

本書は、目次として「1.地下室 Ⅱ.ぼた雪に寄せて 」(安岡治子訳 光文社古典新訳文庫)に分かれています。

「1.地下室」では、主人公の心情の吐露が中心でストーリーはありません。 
そこでは本書の解説でも触れられているように、チェルヌイシェフスキーらが主張した空想的社会主義への批判が根底にあります。
人間は理性に基づいて必ずしも行動するものではなく、その時々の感情や情緒の発露によって行動するものという主人公の考えが反映されているとのことです。
この時代的な背景が本書を理解する上では重要ですが、正直いってわたしにはなかなか難しく思われました。

「Ⅱ.ぼた雪に寄せて」では、主人公は友人の転任のための送別会に偶然に出席する羽目になり、主賓や他の参加者への反惑もあり、邪魔者のような扱いを受けて、売春宿に逃げ込んでしまいます。
そこで娼婦リーザと知り合い、こんなところからは抜け出すように説得します。
そして心にもなく自分の住所のメモを渡してしまいます。
翌日からリーザが本気にして来るのではないかと恐れを抱きます。
きっと今の自分の状況をリーザが見たら軽蔑するだろうから、住所メモを渡したことを後悔しました。
リーザは訪ねてきましたが、結局彼から突き放されて弄ばれます。
しかし、リーザは彼の悲しみを理屈ではなく全身で受け止めて、思わず悪態をつく彼を抱きしめます。
最後にはお金を握らされます。
しかし、リーザが帰ったあとにはそのお金は机の上に返されてあったのです。
彼は、リーザ追ってぼた雪の中に飛び出してゆきます。

主人公の心情を理解するのは難しいですが、それはあくまでも本当の心を隠しているからです。
「1.地下室 第11章」に自身に対する言葉として以下の記載があります。
(ドストエフスキー. 地下室の手記 (光文社古典新訳文庫). 光文社. Kindle 版)

「おまえはたしかに何かを言いたいのだろうが、臆病ゆえに、最後のひと言を隠している。」

解説にも触れていますが、官憲の検閲から大事な箇所を削除せざるを得なかったとあります。
それが何かは、はっきりとは分からないのですが、安岡説によると宗教的な内容の部分ではないかとの推測をしています。
いずれにしてももっとも大切な何かが隠されたまま、本書は発表されたことになります。

わたしは、本書を読んだあとに「カラマーゾフの兄弟」の大審問官に関する記述を思い浮かべました。
イエスと思しき人は大審問官の暴言に何も反論することなく、一言も発せず大審問官に接吻します。
大審問官は、彼を火刑に処することはせずに解放します。

人の理性や所業など信じられない主人公の心情の奥底には、この小説で表現させた言葉だけではないことが潜んでいるのではないでしょうか。
リーザの直截的な純粋な心は、主人公の心の奥底に呼応しているものと思います。
わたしは、むしろ理想を求める清涼な精神が隠されているのではないかとも推測します。

主人公の分裂し相克する心情を描いた根底に、ドストエフスキーの理想と現実を見据える両極端な精神性が伺えるように思えます。
本書に秘められた精神が、最終的には「カラマーゾフの兄弟」の創作へと繋がっていったのではないかと、わたしは思いを馳せました。


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