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初音ミクと時間

初音ミクは歳を取らない。

生身の人間ではないのだから当たり前だが、音楽という芸術分野において不老不死の歌唱者が出現したことは大きなインパクトのある事象である。

いうまでもなく、音楽とは時間芸術だ。始点と終点があり、その間を区切ることで展開を持たせ、さらに細かく区切ることでリズムをつける。4分の曲であれば4分間の空気の振動を表現者が支配することで成り立っている。

ここで問題になるのが、芸術を芸術たらしめるためには、多くの人間の鑑賞が必要という点である。つまり「再生可能」性である。蓄音器が発明される以前は、実際に人間が演奏したり歌ったりしなければ、音楽を鑑賞することはできなかった。要するに時間だけでなく、物理的な空間も限定されていた。

ただし、高ビットレートの音楽を場所を選ばず気軽に聴くことができるようになった今でも、空間を限定して行われる演奏には高い需要がある。その理由はひとことで言えば「ライブ感」なのだが、同じ空間の同じ振動に身をゆだねることによってしか得られない一体感がある。

経験のある人には説明する必要もないが、個人レベルで聴きこんで身体化しされた楽曲が大音量でライブ会場を埋め尽くすと、楽曲は自分もその他の聴衆も飲み込んでひとつの巨大な生き物のごとき実在性を獲得する。その瞬間、我々の体内で原始的な欲求に基づいた快楽がスパークする。人と人との間を隔てる分厚い心の壁が粉砕され、個の感覚が溶けて手綱を失う。

さて人間の文化史を遡ると、そこには「時間のパーソナライズ」を成し遂げようとする戦いの歴史がある。そもそも生物と無生物の最大の違いは、不可塑な時間の流れに対する抵抗の有無である。遺伝子を情報媒体とすることで自らをイデア化し、物理存在のくびきから逃れようとした。そして人類に至って言語をはじめとする情報メディアを発明することによって、文化的遺伝子「ミーム」を生み出した。

ミームは文化がそれ自体をパーソナライズし、一回性から脱却して自己保存しようとする機能を備えている。「伝統」といえば話が早いだろう。伝統化されたミームはときに時間の呪縛を乗り越え、何十年、何百年と継承され続ける。

話を戻すと初音ミク自体は決して歳をとらないわけで、だから我々は毎年のマジカルミライに足を運ぶことによって、その会場で心の壁がぶっ壊れることによって、ほぼほぼ初音ミクが実在していると錯覚するほどの実在性を感じ取ることができる。少なくとも筆者がマジカルミライに行ったときはそうだった。

では初音ミクというミームはすでに確立していて、揺るぎない伝統となっているのだろうか。それについては、肯定できる部分とそうでない部分があると言えるだろう。

肯定できる部分としては、やはりマジカルミライの存在が大きい。毎年行われるイベントとして定着しているし、マジカルミライの初音ミクのイメージが、いわゆる世間一般の初音ミクのイメージとほぼ相違ないと思われるからである。

否定的な部分としては、初音ミクはいろいろなところに遍在するということがある。マジカルミライの初音ミクが、初音ミクの全てではない。初音ミクはそもそも数多のボカロPや絵師、動画師たちの個々の表現活動の集合体であって、公式設定ありきのミームではない。マジカルミライのイメージとはほど遠い初音ミクも存在するし、それもまた初音ミクだからである。

そんなわけで総体的に見れば初音ミクというミームは、常にコンサバとプログレがごちゃ混ぜになっている。時間の制約から解き放たれたかと思えば、逆によりスピーディに変化していくカオスでエキサイティングなミームが誕生してしまった。初音ミクとはそういうものだ。

そんなことを考えながら、10年後の初音ミクに思いを馳せ、そして自らの老いに怯えるのであった。10年後もまだ、10年後の初音ミクを好きでありますように。

―― 了 ――

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