見出し画像

その封筒を開けてはならぬ

あれはもう7年前の話だ。ぼくは当時アマゾンジャパンという会社で働いていた。ぼくはAmazonの商品の中でもギターやピアノ、はたまたスピーカーなどを取り扱う楽器・音響機器の事業部に属していた。いわゆる営業っぽい仕事で、メーカーさんに商品を登録してもらってそれをAmazonのWebサイト上でどのように売り出すか考えて施策を実行する。そもそもが音楽が大好きなこともあってこの仕事はとても性に合っていた。取引先のスタジオを訪れて宣伝用の動画を撮ったり、Amazon内外の広告活用について提案資料を作ったりする。そんなこんなで毎日朝早くから出社しては夜遅くまであくせくと働く。それを繰り返す日々だった。

最初に異変を感じたのはある朝のことだった。窓から差し込む太陽の光を受けて目を覚まし、いつも通りシャワーを浴びて、いつも通り会社に行く支度をする。そして服を着終わった後、洗面所の鏡の前でいつも通りコンタクトレンズをつける。

「よし、今日も頑張るぞ」と気合を入れて鏡の中の顔を覗き込む。

ん?

なんだかぼやけて見える気がする。とりわけ左目の視界が少しだけぼやっとしている気がするけど。気のせいか?

毎日朝から晩まで働いていたから「あーーー疲れ目になっちゃってるのかも。もしくは視力が少しだけ落ちたのかもな。コンタクトレンズもそろそろ新しいのに買えなきゃな」とだけ思った。それ以上深く追求することもなく、オフィスへと駆け出しまたせっせと働くいつもの毎日が始まった。

1週間ほど経った。なんだか少しだけ様子がおかしい。まだ左目の視界がぼんやり白んでいる気がした。「コンタクトレンズがぜんぜん合ってないな。これはそろそろ病院に行かないと」と思い、仕事を切り上げて会社の近くの眼科へと向かった。

「福原さーん、お目目検査しますよー。」

眼科助手と思われる40代ぐらいの男性がぼくを呼んでいる。きっと鍛えているのだろう。白衣越しにムキムキに盛り上がった筋肉の存在が見て取れる。ジェルで固められた髪はつむじから見て左側に流れるように一本一本が生真面目に整列している。とても男らしい見かけにも関わらず、クリクリとした目と優しいボイスがなんとも言えずアンバランスだった。

「お目目 (めめ)ってなんだよ、子どもじゃないんだから」と心の中でぶつぶつと呟きながらも言われた通りにする。眼科に行くと診察の前に顕微鏡みたいなものを覗き込んで眼圧なんかを検査する。ぼくはくるくると回る丸椅子に座り、その眼圧検査用のレンズを左眼で覗き込んだ。

草原の真ん中にグレーの道路が一本まっすぐと走っている。その先には赤がベースで黄色の線が縦にいくつか入った気球の姿が見える。このあまりに単純化された光景を目の当たりにする度に、ファミコン時代のゲームの中に入ったような感覚に陥る。ちょうどすべてがドット上で表現された初期のスーパーマリオの世界のように。茶色いレンガが積み上げられた平の道を左から右へとぎこちなく走り「プヨーンッ!」と音を立てながら左手と右足を高らかにあげてジャンプする。グリーンの土管や茶色いキノコみたいな敵を避けつつ、スターを見つけたら一目散に体当たりしたくなるような。

そんなこんなを妄想しているとレンズの奥から声が聞こえた。

こりゃダメだ。

はっと我に帰り、レンズから目を離して顔をあげた。その眼科助手の男性を見るとまさに「こりゃダメだ」ということを示すコミカルな表情をこちらに向けていた。首を右斜めに傾げてこちらに同意まで求めているじゃないか。

思わず笑ってしまった。「あんた、そりゃないよ」とツッコミたくなったがそうは言えなかった。それはぼくも「こりゃダメだ」と思う節があったからだ。

いつもだとレンズを覗き込んだ途端に「キュッ」と音を鳴らして目がその赤い気球に焦点が合わさる。するとその気球がくっきりと見えるようになる。それで検査はおしまい。ただ今回に限ってはぼくが左眼で覗き込んでいる時には何度も「キュッ」と音を立てながら焦点を合わせようとするのがその度にしくじる。いつまでもぼやけたままだった。スーパーマリオのことなんて妄想している場合じゃなかった。

これは再検査が必要ですね。明日半日お休みを取ってもう一度検査に来てください。

そう言われてその日は終わった。少し間を置いてじわじわと事の重大さに気付いてきた。一体ぼくの左眼になにが起きているのだろうか。段々と不安が募ってきた。

翌日ぼくは午後休を取って眼科へと向かった。再検査は2時間ほどかかる大掛かりなものだった。ガチャガチャとした大型の機械に設置された小さいレンズをいくつも覗き込んだり、暗い部屋の中で目にライトを当てて写真を撮ったりした。よく分からない紫色の目薬なんかも刺した。検査をすればするほど不安が増した。大丈夫だろうか、ぼくの左眼。

福原さん、診察室に入ってくださーい。

こんこんっとノックをして診察室に入る。中には30代後半ぐらいの女性のお医者さんが座っていた。華奢で小柄な体に少しオーバーサイズの白衣を纏っていた。長い黒髪を後ろで一つにまとめて垂らしていた (いわゆるポニーテールってやつ)。色白で和風な顔立ちで細い黒縁メガネをかけていた。ぼくはそのお医者さんの正面の丸椅子に腰掛けた。正面から見ると髪をオールバックにしているように見えて、その黒いメガネの奥からまっすぐな瞳がぼくを目を捕らえて離さなかった。その姿は異様にイノセンスを感じるもので、まるで全力で受験勉強に取り組んでいるセーラー服を着た女子高生のようだった。「必勝!」と太字で書いたハチマキなんて巻いてたら完璧だったと思う。「頑張れ!」とこちらも激励したくなるほどだった。

唐突に彼女は告げた。

福原さん、これは"若年生白内障"だね (↑)。目の中のレンズが白く濁っちゃう病気なのね (↑)。通常はおじいちゃんやおばあちゃんになってかかる人が多いんだけど、福原さんの場合ちょっと早かったみたいだね (↑)。

甲高い声で説明口調でテキパキと言われた。なぜか「〜だね。」とか「〜なのね。」とか言われる度に語尾をあげるのが気になった。まるで幼い子どもを諭すような話し方だった。

ぼくはレンガで頭をぶん殴られたような衝撃を受けた。きっと何かしらの病気にかかっているのだろうという予感はあった。これだけの追加検査を受けたのだからそりゃそうだろう。それでもひとしきり不安を抱えた状態でその言葉を聞いたにも関わらず、心の準備が出来ていなかったことがありありと自分でも分かった。

白内障ってなんだよ。レンズが濁るってなんだよ。

ぼくは不安を包み隠すことなく「なんでこうなっちゃったんですか?」とか「どうやったら治るんですか?」という質問を矢継ぎ早にした。語気は強まり汗ぐっしょりだった。

一通り事務的に回答を得た後、その女医さんはこう告げた。

左目は手術が必要だね (↑)。うちの病院では出来ないから近くの大学病院で手術してもらうからね (↑)。 これから手術依頼書を書くから受付の前で待っててね (↑)。

ぼくは放心状態だったが、指示された通りに受付の前の椅子に座ってその時を待った。手術って一体なにするんだ…怖さがどんどん増してきたけれどそれ以上考えると気絶してしまいそうだった。そんなギリギリの状態で待つこと15分。ぼくはまた「福原さーん」と声をかけられ診察室の中へと入った。

その女医さんから一通り手術の手解きを受けた。そして横長の真っ白な封筒を手に取った。封筒の真ん中に大きな逆三角形で封がされており、その三角形の下の尖った部分には小さく切った半透明のセロハンテープが貼ってあった。彼女はぼくに手渡そうした時にその封筒をギュッと握りしめてこう言い放った。


この封筒、ぜっっったい開けないでくださいよ。ぜっっったい。
必ず封をしたままそのまま大学病院の先生に手渡してください。
いいですね。ぜっっったいに開けないでくださいね。


変だなと思った。なんでこんなに念を押すんだろう。さっきまでと違って語尾のイントネーションが上がることもなく、強めの口調で言われた。

まあでも個人情報とかも入っているからだろう。そう思ってその時は深く考えずに封筒をカバンにしまった。そうしてぼくは病院をあとにした。

ぼくは絶望のなか家路についた。病院の外に出ると灰色のもこもことした雲が空を一面覆っていた。まるで今にも雨がざーざーと降り出しそうだった。

一体なんでぼくが目の病気を患うことになったのだろう?いつも真面目に仕事してるじゃないか。朝から晩まで頑張ってるじゃないか。遅刻もしないし文句も言わずにコツコツとやることやってるじゃないか。ぼくが一体なにしたって言うんだ。

そうやって不慮の災難にあった人が考えるであろうことをひとしきり考えた。考えれば考えるほど悲しくなった。自分が世界で一番不幸な人間であるような気がしてきて涙がボロボロと出てきた。ぼくは灰色の空を白んだ視界で仰ぐように見ながら歩いた。なんだかすべてがファジーで不義理なように思えた。そうこうしているうちに、冷たい雨がしとしと降ってきた。ぼくは雨に濡れながら帰りの坂道を思い切り走った。


家へと戻るとぼくはパジャマに着替えてベッドに潜った。現実逃避をしよう。そう思ってベッドの中で背中を丸め、スマホを両手で握ってYou Tubeを観た。「困ったときのサンドイッチマン」ということで、サンドイッチマンの短いコントの動画を一通り見た。こんなに悲しいのにちゃんとくだらないボケに笑っている自分に安堵した。「ちょっとなに言ってるか分からない」と富澤さんがボケるとなぜだかほんのちょっぴり涙が出た。よし、ちょっとだけ元気出てきたぞ。

ぼくは早速手術を受けるための準備に取り掛かった。目の手術は入院を伴うものだった。ぼくは着替えを用意したり、必要な書類に記入したりした。そうこうしているうちに思い出した。あの封筒のことを。

ぼくは雨で少しだけ湿ったカバンを机の上に置いた。奥の方に手を突っ込んでガサゴソと指で探った後、その封筒を掴んで取り出した。

封筒はぼくに逆三角形を向けて現れた。封をしているはずの薄く黄色がかった半透明のセロハンテープが「ペロッ」とした感じで剥がれていた。帰りの坂道で思いっきりダッシュした時にその振動で剥がれてしまったのかもしれない。

その長さ3センチにも満たないセロテープは本当に鮮やかまでにペロッと剥がれていた。上に弧を描くように反り返っていた。その昔フィギアスケートで荒川静香さんがイナバウアーという技をして脚光を浴びた。背中を大きく後ろに反らせながら氷の上をシャーっと滑る、あのポーズを覚えている人もたくさんいるかもしれない。

このセロハンテープはぼくの前であの荒川さんのイナバウアーをしてた。ぼくはあまりにも軽快に「ペロッ」と剥がれたセロハンテープを見つめながら沸々とこんな感情が湧いてきた。

開けたい‥。このペロっとした部分をどうしても開けたい…!

「いや、ダメだ!」

ふと我に帰る。あれだけ「ぜっっったい開けないでください」って釘を刺されたじゃないか。ぜったいダメったらダメだって。そう自分を制した。

それでも封筒を握りしめたままそのセロハンテープを見つめ続けた。本当に軽々しく「ペロッ」としていた。その姿はぼくを挑発しているようにも見えた。「へへへ、開けれるもんなら開けてみんしゃい」と言われているような気がした。

ぼくは脳内で悪魔の声が囁いているのが分かった。サンドイッチマンのコントを観たばっかだからかもしれない。想像の中の悪魔はサンドイッチマンの伊達さんのような格好をしていた。これじゃ悪魔というか本当は気のいいヤンキーみたいじゃないか。

開けちゃいなよーーー。開けたいんだろぅ?

(脳内で) 伊達さんがそうぼくに叫んでいる。ぼくは限界に達していた。

もういいよ、開けよう。開けちゃおうよ。どうせ、ただの依頼書だろ。ぼくが手術を受ける当の本人なんだからなんの問題もないじゃないか。赤の他人が見るんじゃないんだから。大丈夫、ちょっと開けてすぐに元に戻せばいいよ。うん、開けても問題ないよ。

開けるんだ、福原。





おりゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!



気付いたらぼくはそっと封筒の中身を開けていた。中には三つ折りになった白い一枚の紙が入っていた。変な折り目をつけないように気を配りながら丁寧に三つ折りの紙を開いた。

簡単に言えば手紙のようなものだった。2-3センチの間隔で横線が引かれ、その上には手書きで文字が書かれていた。とてもシンプルな作りだ。上からさっと読んでみることにした。

この度は福原〇〇さんの手術を依頼を差し上げたくご連絡しました。

みたいな挨拶から始まった。そりゃそうだろう。想定通りだ。

福原さんは1週間ほど前から目の不調を感じ、当院での検査の結果が白内障を患っていることが分かりました。

もう少し堅苦しい文体だったけれど平たく言うとこんな感じのことが書かれていた。そこから先は病状や必要だと思われる手術の内容について細かく綴られていた。

なにも驚くことなどなかった。すべてが「まあそうなるよね」というような内容だった。なんだか肩透かしにでもあったような気分だった。ぼくは「なーんだ、これで終わりか」と拍子抜けした気持ちでその手紙を折り畳もうとした。

そのときだ。最後の段落のあとに3行ほどの空白を置いて、一文だけしれっと書かれていることに気付いた。「おや?」と思い、目を向けるとそこにはこう書かれていた。



少し変わった人です。



え?おい…どういうことやねん。

「少し変わった人です」って…   なんやねん!!!!!

ぼくはその一文を見て唖然とした。これがちびまる子ちゃんとかだったら顔に縦線が入って白目になって背後に太文字で「ガーン」とか書かれていただろう。

だいたいさ。その情報いる?その情報って手術するときに使う?

大学病院の偉いお医者さんがいるとしよう。そのお医者さんがぼくの手術を担当することになっているとする。

さて、今日の患者さんはどんな方かな?

オペの手術室でゴムの手袋をしながら小さいピンセットやハサミを小まめに点検しながらこう聞いたとしよう。助手役を務める若手のお医者さんなり看護師さんなりが横に立って面と向かってはっきりとこう言う。

少し変わった人です。

ぜったいその情報いらないだろ。それ言われたお医者さんがうんうんと頷いて「よし、じゃあ今日は"少し変わった人向けのコース"で行こう」とか言うことないでしょ。

確かに思い当たる節がないわけではなかった。「白内障です」と告げられた後にぼくは過度に動揺してしまって、捲し立てるように質問をしてしまったのだ。ちょっと怒ったように「なんで白内障になっちゃったんですか?」みたいなことを思わず聞いてしまった。聞いても仕方ないのに。それで少し困らせたのかもしれない。それは申し訳なかったと今でも思う。

だとしてもさ。「少し変わった人です」と依頼書にしれっと書くのはあんまりじゃないか。ぼくは悲しい気持ちを通り越してだんだんと笑けてきた。もういいよ、この際"少し変わった人向けのコース"でお願いします。

なんだかぼくはもうさっきまで涙を流していたことも、セロハンテープの誘惑も、サンドイッチマン伊達さんの囁きも、そしてあの一文も、すべてがバカバカしく思えてきた。そう思うとなんだか気が楽になった。

ぼくは無事に手術を終えた。左目はパッキリとクリアに見えるようになった。その後も定期検査の度に会社の近くのあの眼科に通った。そしてあの黒縁メガネが似合うイノセントな女医さんに診察してもらう度にぼくはこう思った。「この人はぼくのことを少し変わった人って思ってるんだよな」と。

この話からの教訓など特にない… けれど強いて言えば、なんだか笑っちゃうようなくだらないことで救われることってあるかもしれない、ということになるだろう。ぼくはセロハンテープの誘惑に負けて良かったんだなと思う。なんたって最終的に笑っている自分がいたから。

もちろん、もう「少し変わった人です」とは書かれたくないけれども。



これでこの話はおしまいです。今日はそんなところですね。

それではどうも、お疲れたまねぎでした!


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

サポートとても励みになります!またなにか刺さったらコメントや他メディア(Xなど)で引用いただけると更に喜びます。よろしくお願いします!