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Amazonがあっても本屋はぜんぜんなくならないんじゃないか? という話

出張で日本に帰ったときの話だ。ぼくが働いているAmazonのセールを担当するチームでは、毎年一度世界のどこかで(厳密に言うとAmazonのオフィスがある場所で) サミットというものを開催している。早い話、各国のセールを管轄するチームが集まってセールイベントのことやらそれにまつわるプロダクト開発についてあれこれ話すわけだ。前回はミュンヘンで行われ (それについてはこちらに書いたっけ)、今回は満場一致で「東京で!」ということになった。

すべての出張がきっとそうであるように、出張の楽しみはもちろん仕事だけではない。時間の合間を縫ってこぞって観光名所に足を運んだりご当地グルメに舌鼓を打ったりと大忙しである (仕事は当然タフにやってまっせ!)。訪れた外国人のメンバーは初めて目にする渋谷のスクランブル交差点に目が点になっていたし、厳かな明治神宮の神社を前にして「おーーーすげーーー」と唸っていた。そして本場のラーメンと寿司には「なんだこれ!うま!?」と驚愕していたわけです。

で、ぼくは?というと日本に帰ったら決まって訪れるところがある。それも足繁く。

それは本屋だ。

お気に入りの代官山蔦屋書店にて

街をぷらぷらと歩いているとすぅーっと吸い込まれるようにして本屋の中へ。お目当ての本があるわけでもないが、ずらりと並んだ本を眺めながらウキウキとしている自分がいる。本棚を一つ一つ丁寧に目でなぞりながら「そうそう、レイモンド・チャンドラーの小説が読みたかったのよね〜」ということもあれば「お、糸井重里の『インターネット的』があるじゃん。読んでみよ!」となったりもする。『オズの魔法使い』も『気狂いピエロ』も本で読んだことがなかったのでとりあえずカゴに入れる。電子書籍で買えると分かっていながらも筒井康隆のSF小説はやっぱり紙の本で買ってしまう…あとでアメリカに帰るときに嵩張 (かさば) って大変だということは頭でも分かっていてもカゴに本を放り込む手を止められない。

ぼくは割りかし本が好きな方であるとは思う。これまでの人生でも少なくない量の本を読んできたように思う。

それでも目に入ってくるほとんどの本が真新しい。控えめに言っても本屋にあるほぼすべての本を読んだことがない。本屋の中でぶらぶらとお買い物をしているとまるで未知の世界をぐるぐると回っているようだ。あーーーこんなにもまだ読んだことがない本があるなんてワクワクするじゃないか。

「自分の好き」に囚われる世界

日本では物理的な本屋は2000年から2020年にかけてほぼ半減したという。Amazon.comの日本語サイトが開いたのが2000年11月だ。そしてAmazonが最初に取り扱っていた商材が本であることは多くの人が知るところであろう。そうなると「Amazonで簡単に本を買えるようになったことでリアルな書店が軒並み潰れてしまった」という言説が当然のごとく出てくる。

「それが唯一にしてすべての理由だ」と断定することにはムリがあるだろう。とは言ってもAmazonをはじめとしたオンライン書店の存在がリアル書店の在り方に多大な影響を及ぼしたことに疑いの余地はない。「Amazonでポチッとボタンを押して買うようになったから本屋に行くこともなくなった」と思い当たる人もきっと多いはずだ。

ただオンライン書店は完璧か?

そうではないだろう。価格、セレクション (品揃え) 、配達速度なんかはめっぽう強いわけだけど、それでも完璧なわけではない。

その一つは「購入体験の乏しさ」ということにあるのかもしれない。

オンライン書店だけでなくほぼすべてのウェブサービスは結局のところ検索とレコメンデーションで購入経路が決まっている。平たく言えば、好きなキーワードで検索する → 閲覧もしくは購入する → レコメンデーション ("こちらもおすすめ")で出てきたコンテンツに反応する、というの繰り返す。

以前「You Tubeにおける動画閲覧の7割超はAIエンジンが作っている"おすすめ動画"から来ている」という記事がバズっていた。その"おすすめ動画"のきっかけを作っているのは基本は検索だ。つまり検索とレコメンデーションでほぼ動画閲覧のパターンを作ってしまっているということになる。もちろんここにいい意味でノイズを入れるためにユーザーの嗜好とは関係のない動画もちょくちょくおすすめするわけだけど、大半のユーザーのアクションが検索とレコメンデーションから来ていることは紛れもない事実だ。それがYou Tubeであれ、Tik Tokであれ、インスタグラムであれさして状況は変わらないだろう。

ただこの検索とレコメンデーションから成り立つ世界には難点がある。それは「自分の好き」に囚われるということだ。ユーザは基本的に自分が好きなものに簡単に 、そして永遠とアクセスし続ける。それは気持ちのいい体験ではあるけれど (なんてったって"好きなもの"なのだから)、そこには人生を変えるような衝撃もハッと眼を見開くような驚きもない。すべてはAIとデータによって設計された予定調和だ。便利というものを突き詰めた成れの果てとも言えよう。

ここに今のウェブサービスの限界が見て取れる。

本たちとの自由な対話

リアルな書店の中を歩いているとあることに気づく。それはずらりと並ぶ本を観ながら自分の体内のなにかが反応していることだ。興味深い本が目に入るたびに右脳のあたりがピクピクと動いているような気がする。

感覚としては水族館を歩き回っているような感覚に近いかもしれない。「あーこんな色鮮やかな熱帯魚がいるのだな」とか「こんなに透明感のあるクラゲがいるのだなー」とかとか。普段の生活にはない物珍しさに目を惹かれる。

『地球の歩き方』や『ことりっぷ』が目に入って「そういやそろそろ海外旅行するか」という気持ちになるかもしれない。『はじめてのプログラミング』的な本を目にして「昔からそういえばやりたかったんだよな。やってみよっかな。」なんてことにもなるかもしれない。

そこには本たちとの自由な対話があり"今の生活を変える"なにかしらのヒントが眠っている。たとえそれが、取るに足らない小さなことであっても。

ウェブサービスにこういった機能がないわけではない。でも今のプロダクトのデザインには"偶然"を誘発するように最適化はされていない。あくまでデータを基に確実にユーザーアクションを呼び起こすよう設計されている。

VR (Virtual Reality、バーチャル・リアリティ)を使えばウェブサービスでもまるで実店舗にいるかのような体験が出来る、という話があるのも理解している。あのどでかいゴーグルみたいなのを被って仮想現実の中で"リアルっぽい"購入体験をするわけだ。

ただわざわざそんなことするぐらいならリアルな書店に行けばいいんじゃないだろうか?VRが現実とオンラインの間を取り持つ未来がすぐそこまで来ているとは思えない。そして第一にユーザがそれをどれだけ求めているかについては定かではない。

人間は便利さだけに流されない

水は低きに流れ、人は易き (やすき) に流れる

という言葉がある。水が低いところに流れていくように、人も自然と安易な方を選びがちという意味だ。現代においてその安易な方へと強力にドライブするものが"便利さ"というものだろう。

24時間どこでも好きな本を検索出来ることも、速達で商品が届くことも、どれも捨てがたく素晴らしいユーザー体験だ。そんな世界で生きていること自体が幸せだし、そんな便利さを使い倒さないわけにはいかない。

とはいえ。人間は"おもしろさ"というものにも力強く突き動かされるところが興味深い。わざわざたくさんの道具を買い集めて(もしくはレンタルして)人里離れた山の中へと入っていってキャンプをすることなんかは便利とは対極にある行為だろう。コロナが落ち着いてからというもの、アプリで見れるというのにも関わらず、わざわざお店に足を運んでレコードをパチパチしながら物色したり、洋服をウィンドーショッピングしたりした人も少なくないだろう。You Tubeで好きなだけライブが観れても、やっぱりあなたも私もライブ会場へと足を運ぶのだ。たとえそれが多くの不便を伴っても。お化粧したり、電車に乗ったりといった面倒を乗り越えて足早と歩を進めている自分がいる。

デジタルの世界でずぶずぶになり、レコメンデーションをはじめとするAIに手足を縛られた人間に対して、そんなところに一抹の希望を見出すことが出来るんじゃなかろうか。そしてなにより便利を求めながら便利から避航しようとする人間自体の"おもしろさ"がそこには顕 (あらわ) になっているように思えてならない。

いやーそれにしても天気悪いぜ。

今日はそんなところですね。シアトルらしい雨雲に包まれた景色を観ながら。

それではどうも。お疲れたまねぎでした!

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