見出し画像

チャーチスクールか、公立学校か

 ブログに以下の質問をいただいた。

ブログに届いた質問

 小学生になるお子さんを地元の公立学校に入れるか、あるいは遠方のチャーチスクール(教派は聖霊派)に入れるか、迷っていらっしゃるとのこと。メリットとデメリットを天秤に掛けるも計りかねているご様子。私は某チャーチスクール(同じく聖霊派)で10年ほど働いたので、その経験をもとに、できるだけ公平にこの問題を考えてみたいと思う。

前提条件

 ただその前に書いておきたいのは、まず子育ての正解/不正解は誰にも分からない、という点だ。子どもにとって何が良かったのか、悪かったのか、実は判断するのは難しい。もし「この選択は失敗だった」と親が思っても、やり直せない以上、他の選択をした場合のことは分からない。仮にできたとしても、もっと失敗だったと思うかもしれないし、そうでないかもしれない。(そもそも子ども自身の感想も親と異なっているかもしれない。)

 次に、子どもは決して親の思惑や期待通りに育たない、という点。子には子の個性や性質があり、それは基本的に変えられない。親がどんなに教育しても、影響を与えられるのはごくわずかだと思う。他人を変えることができないのと同じだ(子どもは親にとって保護対象ではあるけれど、あくまで他人であり別人格だ)。
 「子育てはオーブンに入れたお菓子が焼き上がるのを待つのに似ている。その出来上がりは、開けてみるまで分からない」という言葉がある。私はそういう要素もあるのではないかと思う。いつの間にか焼け焦げてしまっているかもしれないし、思いのほか絶妙に仕上がっているかもしれない。日々の一喜一憂とは別に、長いスパンで見ると、「こんなはずじゃなかった」「こんなふうに(良い意味で)変化するとは思わなかった」というような意外性、予測不能性があるように思う。

 最後に、「公立学校に入れたから信仰が育たない」とか、「チャーチスクールに入れたから霊的に育つ」とか、そういうことは一括りに断言できない、と確認しておきたい。どんな環境でも信仰は育つ。逆に言えば、どれだけ環境を整えても育たないものは育たない。そしてそれは親のせいでないし、おそらく誰のせいでもない。「風が吹けば桶屋が儲かる」と言うけれど、何がどう影響して結果的にどうなるか、誰にもコントロールできないからだ。その意味では、何であれ潔く諦めたり、受け入れたりする心構えがあった方が、親のメンタルヘルスは守られると思う。(そして親のメンタルヘルスが守られて日々安定していることが、子にとって重要だったりする。)

公立学校

 公立学校はもちろん完璧ではない。むしろ問題の方が多いかもしれない。不登校児は増加の一途を辿っている。私自身も子どもの頃は、学校なんて爆弾で跡形もなく吹っ飛べばいいと思っていた。

 けれど、教会の自営業的なチャーチスクールに比べて、あらゆる面で整っているのは確かだ。お金はさほど掛からないし、文科省認定の学習が受けられるし、集団生活で社会性が(良くも悪くもではあるが)身に付く機会が提供される。
 子どもが自分自身の性質や立ち位置を知る上で、まわりに多様な背景の子どもが大勢いるのは大きい。アイデンティティの形成には、多くのサンプルと選択肢が必要だからだ(もちろんその過程で嫌な思いもするけれど、人間の発達においてそれを避けることはできない)。チャーチスクールは基本的にまわりが皆クリスチャンなので、「守られる」反面で、アイデンティティが根本的に偏ってしまう可能性が高い。

 そして通学に時間が掛からないという防犯上のメリットもある。通学時間が長かったり、交通機関を使ったりすることで、どうしても被害に遭うリスクが増えてしまうからだ。

 お金がさほど掛からないメリットは大きいと思う。例えばチャーチスクールに毎月掛かる約4万円を、習い事などに当てることができる。習い事の良い点は、特定のスキルが身に付くのもそうだけれど、学校以外にコミュニティができることだ。子どもにとって行き場、逃げ場、息抜きの一つになり得る。また得意なことができるのは(例えばギターが弾けるとか、ダンスができるとか)、子どもの自信や充実感、可能性の拡大に繋がる。また習い事をさせてもらえることで「自分は大切にされている」と子ども自身が思えるかもしれないし、その感覚は自尊心の形成にも繋がるだろう(もちろん、習い事が苦痛になるケースもある)。

 しかしながら、公立学校の雰囲気が「とことん合わない」子もいる。そういう子にとって公立学校に通う日々は地獄でしかない。小学校低学年のうちからそういう事態になるのは稀だろうけれど、学年が上がるにつれてその傾向は顕著になっていく。その場合、いつか限界を迎えてしまうだろう(かといってそういう子にチャーチスクールが「合う」とは限らない)。

 いわゆる「ガチャ要素」もある。どんな教師と出会うか、どんな同級生と出会うかで、学校生活は大きく変わる。ものすごく楽しくてハッピーになれるかもしれないし、そうでないかもしれない。良い人間関係は悪い教育環境を凌駕する(逆も然り)。そしてその「楽しい/辛い」という経験と感情が、「公立学校は良い」「公立学校なんて最悪」という評価に繋がりやすい。けれどその評価は相対的なもので、いささか公平ではないと思う。

チャーチスクール

 チャーチスクールは少人数制ゆえの人間関係の「濃さ」が、メリットでもありデメリットでもある。教師から手厚い教育や指導が受けられ、注目され、深くかかわられる。それが子どもの自尊心を育むこともあるけれど、逆にわがままさを助長し、自分を特別だと思い込ませてしまう面もある。チャーチスクールから一般の大学に進んだ子が、「自分は特別だと思っていたけれど、全然そんなことはなかった。勝手に思い上がっていたし傲慢だった」と後から話してくれたことがある。もちろんそれは一つのケースであって全員に当てはまるとは限らないけれど、チャーチスクールが起こし得る弊害の一つだな、と私は思った。
 あるいは子どもによっては、濃厚な人間関係を息苦しく感じることもある。監視されているように感じ、窮屈になってしまうかもしれない(チャーチスクールに馴染めない子も少なくなかった)。

 学習面ではチャーチスクールは不安が大きい。専門の教師が少ない(少なくなりやすい)からだ。いくら教師の信仰が篤くても、授業をしたり教えたりするにはスキルが必要だ。それに公立学校が「できる子に合わせる(できない子を切り捨てる)」傾向があるのに対して、チャーチスクールは「できない子に合わせる(できる子が伸びない)」傾向がある。それゆえ「本来ならもっと伸びる子」の可能性を潰しやすい。これは私の勤めたチャーチスクールもそうだった。「できる子」にまで手が回らないのだ。

 学習面がよりネックになるのは高校生になってからだ。高校レベルの授業ができる教師スタッフはどうしても限られてしまう。子どもが自学自習でどうにかしなければならない教科も出てくるだろう。大学進学を考えるなら、何らかの対策が必要になるかもしれない。

 学歴面も考えなければならない。小中学校は地元の在籍校(籍だけ置いていて実際には通っていない公立学校)から卒業証書をもらえるし、もらえなくても卒業したことにはなる。けれど高校になると、高卒認定試験に合格しないと卒業資格が得られない。そして高卒認定試験はさほど難しくないけれど、そのぶん偏差値も低く、大学進学を考えるなら心許ない(卒業資格が認められるだけで、その質は保証されない、という意味だ)。ある程度「良い」学歴を望むなら、チャーチスクールは明らかに不利になる。塾に通うなど、補助的な学習が必要になるかもしれない。

 「チャーチスクールは確かに学習面が弱いけれど、信仰の土台がしっかり形成されるし、それによって他のことも上手く行くようになる」というのは現場でよく聞く声(親や教師の期待が多分に含まれた声)だけれど、私の経験では「そうとも限らない」と言わざるを得ない。そもそも信仰心は個人のものであって、他人にどうこうできないからだ。「将来は牧師として働きたい」など初めから進路が定まっていれば良いかもしれないけれど、そうでないなら「チャーチスクールを卒業した後、どんな進路に進むのか(どんな人生にするのか)」をある程度、見据えておくべきだと思う。そこは信仰とは分けて考えるべきだ。そしてその結果、公立学校の方が有利だ、と判断するのもありだと思う。

 最後に、「教師が皆敬虔なクリスチャンだから」「イエス様の臨在が濃いから」というのは、チャーチスクールを選ぶ理由として弱いと私は思う。敬虔な教師がお子さんに「合う」とは限らない。それこそ前述の「ガチャ要素」で、どう転ぶか分からない。それにイエスは偏在しており、「もっとも小さい者と共にいる」はずなので、特定の学校にだけ「濃く臨在している」という考え方には違和感がある(カルト的な発想でさえあると私は思う)。いずれにせよ、神との距離感は学校次第でなく、子ども次第だ。

考えるべき点

 「子どもをチャーチスクールに入れたいのは、誰の意志なのか?」を考えるべきだと思う。親の希望や願望、不安が多分に含まれていないだろうか。子どもは本当にそれを願っているのだろうか。「願っている」として、未就学児の願いをそのまま「本人の願い」と言ってしまっていいのだろうか。多くの子どもは、かなり小さいうちから「親の期待に応えたい」「親をガッカリさせたくない」という意志を働かせており、本心が何であれ、親が喜ぶことを言おうとする傾向がある(その点で、親が無条件に子を愛しているのでなく、子が無条件に親を愛しているのだ)。そこを考慮しないと、公平な判断はできないと私は思う。

 もう一つは「幼少期から宗教教育が必要なのか?」だ。昨今は「宗教2世問題」が注目されているけれど、その本質は幼少期から宗教教育を施し、教義を押し付け、選択の余地を与えない点にあると私は考えている。キリスト教神学は大人になってからでも十分学べる。「普通の子ども時代」を過ごせないことで失うものもある。もちろん子ども次第だし、子どもにとって何が良いか(合っているか)判断するのは難しい。けれどそこに真摯に向き合う(向き合い続ける)のが、親の役割ではないだろうか。

提案

 初めに「何が正解かは誰にも分からない」と書いた。であるならそれを逆手に取って、「とりあえず試してみる」という考え方もあるかもしれない。公立学校に入れてみて、何年か様子を見て「やっぱりチャーチスクールの方が良いのでは」と思ったら編入させても良いかもしれないし、その逆も良いかもしれない。転校は子どもにとって負担だけれど、低学年ならさほど気にしない(あるいは忘れる)ことも多い。

 いずれにせよ、子どもとのコミュニケーションが大切になると思う。子どもの本心はなかなか分からない。子ども自身にさえ分かっていなかったりする。それを見守り、時に応じて解きほぐしていく作業をコツコツ続けるのが、親の役割かもしれない。そして「チャーチスクールか、公立学校か」という問いの「正解」を選ぶことよりも、そうやって親が子に向かい続ける姿勢の方が、子にとって大切であり、影響が大きいのかもしれない。

最後に

 以上、長くなったけれど、俯瞰してみると「ひとまず公立学校に入れる」のを推奨する文章になったと思う。これは私がそもそもチャーチスクールに否定的だからかもしれない(その点で完全に公平には書けなかった)。しかし私自身、公立学校であまり良い思いをしておらず、なんとか社会生活に耐え得る人間にはなったけれど、チャーチスクールという選択肢があったら何か違っていたかもしれない、とも思う。

 そうは言っても私個人は、今にして思うと学校(チャーチスクールであれ公立学校であれ)という制度そのものが合っていなかった気もする。できれば自分のペースで自由に勉強したかった。その意味では、ホームスクール的な選択が私にとって「正解」だったかもしれない。前述の通りこれは「たられば」であって、真偽を確かめようがないけれど。

 最後に、質問者さんだけでなく、子どもの教育に悩む全ての保護者に伝えたい。子どもの性質をよく観察してほしい。その話をよく聞いてほしい。その子にとって何が「良い」のか、よくよく悩んでほしい。私たちに「正解」は分からない。ただ分かるのは、親が子のためにとことん悩むのは「正しい」ということだけだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?