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クリスチャンとお金

 教会の解散時、私はまだ30代だった。看護師免許も業務経験もあったので、再就職は難しくなかった。その点は他の成人信徒よりマシだったかもしれない。

 しかし当時は貧困を極めていて、銀行預金は数ヶ月間、プラスとマイナスの間を行ったり来たりしていた。教会が早々に解散してくれなかったら破綻していたと思う。最悪な状況とギリギリセーフな状況が混在する、変な期間だったと振り返って思う。いや、それ自体が生存バイアスか。

 教会のあれこれが終わり、私は割とすんなり「普通の暮らし」に戻れた。精神的なダメージもさほどないように感じていた(その認識が甘かったのは数年後に分かる)。毎朝同じ時間に起きて顔を洗い、出勤して同僚たちに挨拶する。お祈りはなし。聖書も賛美もなし。「ハレルヤ」とか「アーメン」とか言う人もいない。働いて家に帰り、川沿いをランニングし、時々お酒を飲んで、週末は遊びに行く。それまでできなかったお寺巡りとか、バンドが演奏してくれるバーとかも楽しんだ(大丈夫、悪霊なんてどこにもいないから)。

 それでも貯金ゼロからスタートするのは不安しかない。同年代の同僚たちは既に家を買っていて、車を数年ごとに買い替え、子どもたちの教育費の心配をしている(といいつつ預金残高は1000万とか2000万とかありそうだ)。一方の私は賃貸暮らしで、預金残高は10万もなく、突然の出費に全然対応できない。差が大きすぎる。100周遅れのレースに挑ませられる絶望感、と言えば通じるだろうか。おまけにテレビを付ければ、老後に2000万必要だとか言われる始末。

 こういう話になると「人生は人それぞれだから」とか「人生に勝ちも負けもない」とか「神様と共に歩めれば何がなくても大丈夫」とか言う人がいるけれど、だったらあなたのその余ったお金、恵んでくれませんか。

 投資をすればいいだろうか。株とかFXとか。全然知らないけれど。同僚にそれとなく聞くと、投資信託とかNISAとかふるさと納税とかを勧められた。銀行に預けるより良いからと。ネットで調べると、情報に強い社会人ならどれも「やってて当然」らしい。え、まだ銀行預金しかしてないの? とか某ブロガーに煽られそうだ。

 新宿のはずれのベーグルが美味しい店に行く。一個210円。3つくらい買おうかな、と物色しながらふと考える。近所のスーパーで袋詰めのドーナツを買えば半額くらいで済むんじゃないの? そういう積み重ねが将来の預金残高を変えるんじゃないの? とかなんとか。同時に、株でコツコツ小金を稼いでいるおじいさんが毎日スーパーの半額になった弁当ばかり食べている話を思い出す。ねえ、本当に投資をすれば「より豊かな暮らし」ができて、老後は心配なくなるの?

 教会で奉仕している時はお金の心配などしなかった。いやなんとなく心配だったけれど、「神様がなんとかしてくれるだろう」と無責任かつ無計画に考えていた。「富に仕えてはならない」と聖書も言ってるよね、と。什一献金(総収入の十分の一を献金する仕組み)を毎月真面目に捧げていたのも、その保証のようになっていた(まるで神様が帳簿を付けていて、私が将来お金に困ったらそこから引き出してくれるかのように)。お金のことを心配するのは不信仰だ、と教会で教えられていたのも関係あったと思う。

 もちろんそれは恐ろしく危うい状況だ。老後に破綻する確率が高い。けれど、今のような心配を全くしなかった分、幸せだったと言えるのかもしれない。無知は強い(褒めてない)。

 貯金が全然ないのは心配だ。でもじゃあ貯金がどれくらいあったら安心できるのか? さっぱり分からない。

 今の私に言えるのは、クリスチャンもちゃんとお金の心配をして、教会にありったけ捧げるのでなく、毎月いくらかずつでもコツコツ貯金した方がいいんじゃないの……? ということだ。それは「富に仕える」ことでなく、自分の生活や将来に責任を持つことだと思う。「神様がなんとかしてくれるだろう」という精神でポーンと丸投げするのは楽だけれど、それでいつか二進も三進も行かなくなった時に、神様を恨んでしまうのも辛い。

 新宿のはずれのお店で買ったベーグルはたいそう美味しかった。友だちに会う時、お土産に幾つか買って持って行った。その友だちも美味しそうな焼き菓子を用意してくれていた。プライスレスな物々交換。そして楽しくお喋りした。

 ねえ、これって良いお金の使い方なんじゃない? と思ったけれど口には出さなかった。

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